【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

中国攻略を目指す織田信長が吉川経家を渇殺しに「鳥取城の戦い」

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鳥取県鳥取市
●1581年(天正9年)6月~10月
羽柴秀吉(2万)VS吉川経家(4万)

《合戦までの経緯》
因幡の守護・山名豊貞の三男・山名豊国は鳥取城主の座を逆臣に奪われていたが、中国地方攻略に乗り込んでいた羽柴秀吉の後押しで、1580年(天正8年)6月、鳥取城主の座に返り咲きました。

しかし、秀吉に対して反感をもつ中村春次や森下道誉などの国衆によって、またしても城を追われ、そのまま仏門に入ってしまいました。

その豊国が放逐された鳥取城には、中村・森下らから懇願された吉川元春によって派遣された牛尾元貞が城主として入場してきました。

ただ、この牛尾元貞が負傷し出雲に帰ることになってしまい、1581年(天正9年)に続いて元春から送り出されえた福光城主・吉川経家が兵400名とともに入城し、来るべき秀吉軍の侵攻に備えました。

当初、経家は籠城軍も1000名、武装兵は800名を数え、また鉄砲や弾薬も一応そろっており、3~4ケ月持ちこたえれば、11月になって雪が降り始めれば秀吉軍も撤退するだろうという観測を吉川元春へ手紙で伝えていました。

ところが経家が鳥取城に入った時にはすでに秀吉による謀略の手が鳥取城に伸びていました。というのも秀吉は鳥取城を枯渇させることを目的として、事前に若狭の商人を通じて鳥取にて米を高値で買い漁っており、城方も欲に駆られて米を売りさばいてしまい、城内にはわずかな米しか残っていなかったのです。

《合戦の内容》
秀吉は2万の大軍を率いて、1581年(天正9年)6月25日に姫路城を発ち、但馬口から因幡に入ると、最初にあちこちに放火して回る作戦をとりました。

続いて鳥取城からみて東方にある太閤ヶ平を本陣に定め、右翼・左翼・平地というように三軍を布陣させたうえ、城の本丸と新城の周囲に堀を掘って、鹿垣を結い、訳12kmに渡って包囲網を作り上げ、さらに三階の櫓を1100m毎に建てて兵を配置しました。

さらには湊川の周辺に乱杭を打ち込み、海上には警護艇を浮かべて毛利水軍の援軍を断つなど、糧道を完全に遮断し、蟻の這い出る隙もないように完全な兵糧攻めの態勢を整えました。

このように毛利氏からの援軍が近づく道も閉ざされた鳥取城は孤立無援のまま4ケ月が経ちました。

最初のうちは、5日に一度、3日に一度と柵際まで出て行って草木を刈り取り、城に持ち帰って何とか飢えを凌いでいましたが、こういった食料が尽きてくると、城内にいるものたちはまるで餓鬼のように草の根や牛馬、さらには人肉まで食べるといったような地獄絵図さながらの様相を呈してきました。

このように城内にいる老若男女がやせ細り、まるで餓鬼のようになって飢えのために泣き叫ぶ姿を見た経家はさすがに耐えきれなくなり、冬になる前に開城することを決め、家臣である野田春実に書簡を託して秀吉の陣営へ送り出しました。
   
しかしなかなか双方の話し合いはまとまりませんでしたが、最終的に経家ならびに森下、中村らが切腹するということで合意に至り、鳥取の渇殺しと呼ばれた鳥取城の籠城戦は幕を下ろしました。

《合戦の結果》
10月24日から翌日の未明にかけて経家らの切腹が真教寺にて行われました。その検使役として、秀吉のもとから浅野長政堀尾吉晴が真教寺に出向き三人の死を見届けました。

鳥取城の落城に伴い、因幡は秀吉のものとなりました。この後秀吉は東伯耆に兵を進めて吉川元春軍と対峙しましたが、11月に雪が降りはじめると共に撤退を開始しました。