【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

徳川家康が武田勝頼と遠江の覇権を争った「高天神城の攻防」

f:id:hitokoburakuda2012:20151023124110j:plain

●静岡県小笠郡大東町
●1578年(天正9年)
徳川家康(不明)VS武田勝頼(不明)

《合戦までの経緯》
亡き武田信玄の跡を継いだ勝頼は、1575年(天正5年)5月に行われた長篠の戦いにより大きな痛手を負いました。

ただ勝頼はまだ自分の運命を諦めたわけではなく、その後も失地を回復すべく手を打ち続けました。

まず勝頼は西から攻め寄せてくる織田ならびに徳川連合軍との対決に全戦力を注ぎ込むために、東から攻められないようにする必要がありました。

もともと武田氏においては相模の北条氏政の娘を、1577年(天正5年)1月勝頼の正室に迎えるなど、以前から北条氏とは親密な関係を築いていました。

その北条氏と同盟を続けていれば東に対しての心配は何もなかったのですが、上杉謙信が亡くなった1578年(天正6年)3月から謙信の姉の子である景勝と、北条氏との同盟の際に謙信のもとにやって来た景虎の間で起こった後継者争いにより北条氏との同盟関係はなくなりました。

というのも北条氏はもちろん北条一族である景虎を支援したのですが、武田氏は景勝からの上野の領地割譲や黄金の進呈などの提案を受け、景勝支持に回ったためです。

その後1579年(天正7年)3月、景勝が後継者争いに勝利したので武田氏は改めて上杉氏と同盟を締結しました。

このように、過去は北条氏と同盟を組んで上杉氏と戦ってきた武田氏が、さきに述べたように上杉謙信の死後、上杉氏と同盟を結ぶことになったため、北条氏武田氏との同盟を破棄し、新たに徳川家康と同盟を結ぶことになりました。

ただ武田氏にとっては、新たに同盟を結んだ上杉氏は後継者争いに伴う内乱のため、兵力が低下しているのに対し、北条氏はまだまだ勢い盛んな状態だったということもあり、決してこの外交政策は正しい選択とは言えませんでした。

なぜなら武田氏と同盟を破棄した北条氏は、勇んで自身の領国である伊豆から駿河へ兵を進め、それに合わせるように徳川氏遠江の武田領へ侵入し、東海地方における武田領が東西から攻勢を受ける形になったため、武田氏の勢いは一気に衰えていきました。

《合戦の内容》
勝頼が父・信玄さえ落とすことが出来なかった徳川の支配する高天神城を攻略したのは1574年(天正2年)7月でした。これによって武田氏遠江東部を勢力圏に加えることになりました。

しかし長篠の戦い後、徳川が反撃に転じ、1575年(天正3年)6月の二股城攻略を皮切りに三河の山間部や遠江の東部から武田氏の勢力を排除していきました。

そして徳川勢は高天神城の奪還を目指して1578年(天正6年)から攻略に掛かりました。一方勝頼は高天神城を救援すべく兵を進めましたが、北条氏との同盟破棄後、北条氏から駿河侵攻を受けるに伴い、駿河へ兵力を向けざるを得なくなり、高天神城を顧みる余裕がなくなってきました。

後詰の来ない高天神城に対して家康は、周囲に付城を築き、徐々に城の包囲を狭めていったため、孤立無援となった城方は、1581年(天正9年)3月22日徳川勢に対して最後の攻撃を仕掛け、多数の兵が討ち取られたうえ、城も徳川勢の手に落ちてしまいました。

《合戦の結果》
高天神城を失った武田氏の勢力は東に向かって大きく後退し、その結果衰退した武田氏を見限って穴山信君や木曽義昌などの武田恩顧の武将たちが次つぎと織田氏徳川氏に寝返っていきました。

このようにしてみると高天神城の陥落が武田氏の衰退のひとつの契機といえ、その後武田氏はやがて来る滅亡に向かっての運命の坂道を転がっていきました。