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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

上杉謙信の死後、家督を争った上杉景勝と景虎の戦い「御館の乱」

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新潟県上越市
●1578年(天正6年)~79年(天正7年)
上杉景勝(不明)VS上杉景虎(不明)

《合戦までの経緯》
上杉謙信は、関東では北条氏と、信濃では武田氏と、さらに北陸では織田氏など各方面において義のために有力武将たちと戦いを繰り広げたことから、各地の諸将よりまさに軍神のごとく恐れられました。

そんな謙信も、1578年(天正6年)3月13日、病を得て(脳卒中のため、厠で倒れてそのまま息を引き取ったといわれています)、ついにその戦いに明け暮れた生涯を終えることになりました。

ただ謙信の死が突然のことで、特に遺言を残していなかったことから、謙信亡き越後・上杉家には継者問題という課題が残されました。

というのも、謙信は生涯妻帯しなかったため子がなく、姉の子供で謙信にとっては甥にあたる景勝と、相模の北条氏康の子で、1570年(元亀元年)に越相同盟が結ばれた際に謙信のもとにやってきた景虎という二人の子供を養子に迎えていたのですが、そのどちらに上杉家の家督を譲るかということを明確にしていなかったためです。

そんな二人が謙信の死後、自らが謙信の後継者であると名乗りを上げて激しく対立し始めたのです。

景勝は3月15日、すぐさま春日山城を占拠し、自身が謙信の正当な後継者である旨を国内外に知らしめると、景虎のほうも負けじと関東管領上杉憲政謙信の養父)の館である御館に立て籠もり抗戦を始めたため、上杉家は双方二つの陣営に分かれて衝突を繰り広げることになってしまいました。

尚、国外の勢力に関していうと、景虎は氏康の実子であることから終始北条氏からの支援を受け続けていましたが、景勝については武田氏と同盟関係を結んでこれに対抗しました。

当初、武田氏北条氏と同盟関係にあったため、景虎を支援していましたが、景勝によって上野の領地の一部を武田氏へ割譲、さらには佐渡金山から産出され、春日山城に貯蔵されている黄金のうち、1万両を武田家に送るなどを提示して、武田氏からの支援を取り付けました。

北条氏及び武田氏は上杉のそれぞれの後継者を応援しつつも、腹の中ではこの内紛をうまく利用し、上杉氏の勢力を自陣に組み込んでしまおうという目論見があったことは否めない事実でした。

さらに武田氏が、同盟を結んでいる北条氏が推す景虎ではなく、景勝を支援することになったため、北条氏武田氏の関係に亀裂が入り、両者の同盟関係が消滅してしまうなど、この御館の乱は越後の問題んみにとどまらず、関東や甲信越を巻き込む争いへと発展していきました。

《合戦の内容》
上杉氏を二分したこの後継者争いは一年以上続きました。当初、北条氏の支援を受けて互角に戦いを繰り広げていた景虎でしたが、上杉家中においては、北条氏政の弟である景虎よりも、やはり謙信と同じ血を引く景勝の方が後継者にふさわしいと、景勝支援に廻ったため、景虎は徐々に孤立無援の状態に陥り、ついに1579年(天正7年)3月17日に御館は陥落してしまいました。

《合戦の結果》
御館を失った景虎は、上杉家での家督相続を諦めて、実家である小田原を目指して落ち延びていきましたが、3月24日家臣の裏切りに遭った景虎は、鮫ヶ尾城にて自害という最後を遂げることになってしまいました。

逆にライバルであった景虎を越後から排除した景勝は、1581年(天正9年)、自身に反旗を翻す勢力を一掃し、さらには1583年(天正11年)には国内統一を目前に控えた羽柴秀吉と同盟を結び、越後と佐渡の領主としての地位を固めました。