【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

織田信長が反旗を翻した別所長治を干殺しに!「三木城の戦い」

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兵庫県三木市
●1578年(天正6年)~81年(天正8年)
羽柴秀吉(2万7千)VS別所長治(8千)

《合戦までの経緯》
播磨の国の東部を支配する別所氏は守護である赤松氏の一族で、播州で一番の要害といわれる三木城を居城としていました。

別所家は黒田官兵衛からの誘いを受け、他の東播磨の諸豪族と共に、当初は織田信長に加勢すると決めていました。

そんな中、1578年(天正6年)2月中国の毛利攻めの総大将として播磨に入った秀吉から軍議のため加古川城へ呼び出されたので、叔父の別所吉親と家老の三宅治忠を派遣しました。

その軍議のなかで秀吉が治忠からの進言を取り上げなかったとの報告を受けた当主の長治は、秀吉に対して不信感を抱くことになりました。

そしてその後、長治は東播磨の諸豪族と語らい、ついに織田氏からの離反を決め、毛利へ寝返ることによって、織田氏の中国侵略に対して待ったを掛けました。

対する秀吉は4月3日に三木城の支城のひとつである野口城を包囲しましたが、この時期毛利軍が上月城を攻めている最中だったため、本腰を入れて取り掛かることが出来ませんでしたが、信長からの上月城を見捨てよとの指示が出て、上月城が落城したのち、本格的に三木城への攻勢が開始されました。

そして秀吉は6月29日、平井山に陣営を定め2万7千の兵を持って、三木城と30を数えるその支城に対する包囲を行い、個々に落としていくという持久戦を展開していきました。

《合戦の内容》
城内の兵糧を枯渇させ、城方を弱らせる作戦をとっていた秀吉でしたが、1579年(天正7年)1月、英賀の城主である三木通秋が籠城中の長治のもとへ兵糧米を運び込むことに成功、さらに5月には毛利輝元が淡河城を経由して兵糧米を運び込むなど秀吉の裏をかかれるようなこともありました。

そんな中、2月には城方2500が打って出て秀吉に攻撃を掛け、さらには毛利勢8000が秀吉率いる包囲勢に迫ってきました。

しかしながら秀吉による厳重な包囲網は徐々に効果を出していき、年が明ける頃には籠城している兵の中で動ける兵もまれになり、戦意の喪失がはなはだしくなっていきました。

そして秀吉はついに総攻撃を決意し、1580年(天正8年)1月11日、弟の秀長を総大将に据えて三木城をはじめとする各支城へ攻め掛かりました。

攻撃うけた鷲尾城では別所吉親が早々に開城し、そのまま三木城へ入って、長治と共に抗戦の構えを見せました。

しかしながら15日、秀吉方についていた長治にとってもう一方の叔父にあたる別所長棟が、その家臣の小森予三左衛門通じて長治にこれ以上戦うことの無意味さを説き、長治もそのことを受け入れて秀吉方と和議を結ぶことを承諾しました。

《合戦の結果》
長治は弟の友之ならびに叔父の重棟の命と引き換えに城兵を助けるという条件を秀吉に認めさせたうえ、1月17日三宅治忠に介錯を依頼し、家族と共に自害し、その23年の生涯を終えることになりました。

一方秀吉は、三木城の落城後、居城である長浜へ戻っていましたが、織田家に寝返った宇喜多直家に対して、1580年(天正8年)12月、小早川隆景吉川元春らが備中にある宇喜多の支城を奪い、さらに翌年3月には美作西部を占拠するなど、宇喜多に対する圧迫を強めてきたため、急遽播磨へ取って返しました。

宇喜多を美作へ向かわせ、自身も備中へ進みましたが、毛利が決戦を避けて撤収したため、そのまま西播磨の対抗勢力を5月までにことごとく落として播磨の平定を成し遂げました。