【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

大友義鎮と島津義久が九州の覇権をかけた合戦「耳川のたたかい」

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●宮崎県日向市美々津町
●1578年(天正6年)11月12日
島津義久(4万)VS大友宗麟(4万)

《合戦までの経緯》
1578年(天正6年)8月12日、出発前に洗礼を受けてキリシタンに改宗した大友宗麟は3万5千の兵を率いて日向へ攻め入り、まずは県城の土持氏を屠ったのち、その勢いのまま海岸線沿いに南へ攻め下っていきました。

宗麟はキリシタンということもあって、寺や神社を破壊しながら進み、名貫原での戦いにおいては勝ちを収めましたが、日向の中部にある新納院高城を死守する山田有信の頑強な抵抗を受け、ここで進軍が止まりました。

この城は軍事的にどうしても必要な城だったため、宗麟はさっそく城攻めに取り掛かりましたが、守備兵が500人と少ないものの、高城川と切原川に挟まれた高台という天然の要害に位置していることもあり、なかなか落とすことが出来ませんでした。

10月20日に切原川の東方に本陣を置いた宗麟によって、周囲の民家に火をつけられ、さらに水の手を断たれた城方は非常に苦しい籠城戦を強いられましたが、島津家久が率いる1,000名の兵が入城すると一気に活気を取り戻しました。

さらに11月1日には、島津義久が率いる本隊がついに到着。高城川と一ツ瀬川を挟んだ位置にある佐土原に陣を敷き、早速伏兵を切原川に忍ばせて大友軍500余を討ち取りました。

《合戦の内容》
大友軍の前線では、宗麟がいないため、軍議がまとまらず、宗麟からの指示を得てから動こうとする佐伯惟教ら慎重派と、先に仕掛けて一気に決着をつけようという田北鎮周ら積極派がお互いの意見を主張しあっていましたが、最終的には軍議により慎重派の意見が通りました。

しかし、その決定に不満を募らせた積極派の面々は、翌11月12日の夜明けとともに高城川を渡って攻撃を開始し、それに引きずられるようにして慎重派の面々も戦いに参加せざるを得ない状況になりました。

一方、島津軍はこの大友軍の動きに対してすぐさま反応し、島津義弘をはじめ、忠平、忠棟が川岸近くで大友軍を迎え撃ちました。大友軍は島津軍先鋒である北郷久盛を突き崩し、その勢いに駆って進んでいきました。

しかしながらこれはすべて島津軍が仕掛けた罠で、指揮系統が定まっていない大友軍は敵を深追いし過ぎ、ついには島津軍に包囲されてしまったのです。

そしてこの後、島津軍が一気に襲い掛かりました。まずは島津軍の伏兵が大友軍の側面を突き崩すと、続いて忠平・忠棟と義久の本体が左右前方から攻めかかり、さらには城方の将兵も斜め後方から襲い掛かるといった、いわゆる島津軍得意の「釣り野伏」といわれる戦法によって、形勢は一気に島津軍に傾きました。

大友軍は無残にも敗走に移りましたが、島津軍はさらに追撃を開始し、耳川のほとりで大友軍に壊滅的な被害を与えることに成功しました。

《合戦の結果》
この戦いで大友軍は3,000~4,000の戦死者を出し、その中には田北鎮周や佐伯惟教をはじめとする多くの有能は人材も含まれていました。

この敗報を無鹿で受けた宗麟は、巻き返しを図るのは困難だと悟り、豊後へ引き上げていくことになりました。この戦いを機に大友氏は衰退し、代わって島津氏が勢力を拡大していきました。

尚、この耳川の戦いでは両軍ともに多くの鉄砲を使用していたという記録が残っており、さらに大友軍は秘蔵の「国崩し」と呼ばれる二門の大砲も用意していましたが、威力を発揮することなく終わり、置き捨てにされていたといわれています。