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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

上杉謙信による織田信長との戦いへの布石「七尾城の攻防」

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●石川県七尾市
●1576年(天正5年)9月15日
上杉謙信(不明)VS畠山義春(不明)

《合戦までの経緯》
越後の上杉家は謙信の父である為景の代から越中に向けて触手を伸ばしていましたが、上杉家にとって宿敵であった加賀や越中本願寺門徒たちが徹底抗戦によりなかなか成果を上げられませんでした。

そんな中、1576年(天正4年)5月謙信本願寺顕如と和睦することになり、越前を押さえ、続けて加賀方面へ侵攻してきた織田勢に対して加賀や越中本願寺門徒と共に戦うことになりました。

というのも謙信は当初関東の平定を目指し、本願寺門徒の敵である織田信長と同盟を結んでいましたが、自身も上洛を目指すことを心に誓い、上洛を行うに際して後顧の憂いを無くすため、武田氏北条氏と和睦し、さらに足利義昭の要請に応えて信長との同盟を破棄し、逆に信長との対決を決意したからです。

謙信は上洛のための布石として能登の統一に乗り出しました。当時の能登の国主は畠山氏でしたが、1574年(天正2年)に当主の義隆が家臣によって暗殺され、2歳の義春が家督を継いでいたこともあり、実権は遊佐や長、温井といった重臣に握られていました。

さらに織田氏と上杉氏が能登に対して様々な働き掛けを行うなか、遊佐続光・温井景隆と長綱連が主導権争いを行い、遊佐と温井は上杉家へ帰順するべきと唱える中、長は織田家への帰順を主張し、最終的には織田家に付くことに決まりました。

しかしこの重臣同士の争いが、後々の畠山氏にとって不幸を招くことになりました。

《合戦の内容》
上杉勢は1576年(天正4年)秋、畠山氏の守る居城・七尾城へ攻め掛かりました。しかし思った以上に城の守りが固いとみた謙信は、無理な城攻めを避けて能登の各地にある支城を落とし、七尾城を孤立させましたがそれでも七尾城は落ちる気配を見せませんでした。

そんな中、関東にて北条氏が上杉領へ攻め込む姿勢を見せたため、1577年(天正5年)4月に謙信は越後へ撤退せざるを得なくなりました。

関東の手当てを終えた謙信は、同年7月13日再び能登へ進出し、七尾城へ攻め掛かりました。城方も改めて防備を固め籠城戦を開始しましたが、折あしく疫病が城内において発生し、多数の雑兵に続いて、23日に当主の義春が病没しました。

疫病ため、畠山氏の戦力は激減し、さらに当主の義春が亡くなり、畠山氏の嫡流が途絶えたことによって、一度収まっていた勢力抗争が改めて表面化してきました。

対上杉との戦いは、長が主導して行っており、義春の死と共に立場がさらに強くなったことに対して、遊佐や温井はこれ以上長に抑えつけられることを潔しとせず、上杉家に内応を約束し、9月15にクーデターを決行しました。

結果、遊佐・温井は長の一族を謀殺し、そのうえで上杉勢を七尾城に引き入れることにより、1年越しの籠城戦に終止符が打たれました。

《合戦の結果》
一方、信長軍は謙信に攻められていた七尾城に対して、長からの救援要請もあり、柴田勝家を総大将とした応援部隊を送り込んでいましたが、加賀の本願寺門徒に行く手を阻まれ、七尾城の救援に間に合うことが出来ませんでした。

逆に七尾城を落とした上杉軍が9月24日、加賀へ兵を進め、織田軍と対峙することになりましたが、織田軍は手取川を超えた時点で七尾城の落城を知り、撤収しようとするところに上杉軍は攻めかかり、約2,000の兵を討ち取るという大戦果を挙げました。

その後謙信能登に戻り、残った敵を掃討し、能登の統一を完了しました。