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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

長宗我部元親が目指す土佐統一のための合戦「四万十川の戦い」

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高知県中村市
●1575年(天正3年)
長宗我部元親(7千3百)VS一条兼序(3千5百)

《合戦までの経緯》
一条氏が土佐へ疎開してきたのは、1468年(応仁2年)前関白の教房が、前年に始まった応仁の乱のために屋敷を焼かれてしまい、土佐の幡多郡の中村にあった一条氏の荘園に仮住まいするためでした。

応仁の乱が終結したあと、教房は都へ戻りましたが、子の房家は中村の地に残り、居城である中村城の守りを固めて、自身は麓にある居館に住みました。その居館は中村御所と呼ばれ、地域における文化的な中心となっていきました。

なぜそのように一条氏が中村の地に根付くことが出来たかというと、それには近隣の豪族の協力が欠かせませんでした。

というのも影響力を失いかけていた守護の細川氏になり代わって、彼らの間に起こったもめ事などを、日本屈指の名族である一条氏が彼らの旗頭として、うまく収めてくれることを期待していたからです。

そんな一条氏は房家の死後、房冬、房元と受け継がれていき、房元の子である兼定の代になると、家勢は一気に衰えていきました。

なぜなら兼定はあまり出来のいい君主ではなく、放蕩三昧のうえそのことに諫言を行う家臣を遠ざけ、さらには南伊予の西園寺の領土に侵食するなど、一条家を抗争に巻き込んでしまったからです。

一方、長曾我部家は兼序の代に本山氏が中心となった反長宗我部連合に攻め込まれ、滅亡の危機に陥ってしまったものの、国親の代から少しずつ勢力の拡大に努め、国親の子である元親の代になるとさらに飛躍を重ねました。

そんな長宗我部家にとって一条家は、長曾我部家を滅亡の淵から救ってくれたという恩がありましたが、ただ土佐を平らげるためには斃さなければならない存在でもありました。

しかし恩をあだで返すようなこともはばかられるため、元親は一条氏に対して、家臣に兼定を見限らせ一条家の弱体化を図るなど、様々な謀り事を仕掛けていきました。

そしてさきに述べたように当主としての資質に欠けていた兼定は、長曾我部と共謀した京都の一条本家などにより1574年(天正2年)2月に母の実家で会う豊後の大友氏のもとへ追放され、その跡目には嫡男の内政が元親の傀儡として相続しました。

《合戦の内容》
豊後へ追放された兼定でしたが、失地回復のため、1575年(天正3年)伊予へ上陸し、伊予の豪族たちの協力を得て中村城へ迫りました。

兼定は、長宗我部の支配に不満を持つ一条氏の旧臣を含む約3千500の軍勢を率いて、栗本城を攻撃し、陥落させることに成功、さらにはその勢いを駆って中村城に迫りました。

その知らせを受けた元親は7千の兵を率いて中村城の救援に向かい、四万十川を挟んで両軍は対峙することになりました。

一条勢は四万十川に乱杭や逆茂木を設け、弓や鉄砲を配置したうえで長宗我部勢を待ち構えていましたが、百戦錬磨の元親は軍を主力と陽動に分け、まず主力部隊に敵前へ渡河する姿勢を見せました。

対して一条勢は迎え撃つ態勢を整えましたが、元親は陽動部隊に対して川上から渡河するよう指示を出し、それをみた一条勢が川上からの渡河を阻止するために川上の方面に移動を開始したため陣形が崩れ、そこへ元親が主力部隊を突撃させて、見事に一条勢を敗走させました。

《合戦の結果》

兼定は敗走後、豊後へ戻ることも出来ず、豊後水道にある戸島での生活を強いられ、1585年(天正13年)7月にその生涯を閉じました。

逆に元親は、この合戦に勝利し土佐西部の支配を確立させ、土佐のほぼ全域を押さえることに成功しました。