【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

上洛を目指す織田信長が美濃の斎藤龍興を攻略「稲葉山城の戦い」

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岐阜県岐阜市
●1567年(永禄10年)8月15日
織田信長(不明)VS斎藤龍興(不明)

《合戦までの経緯》
織田信長桶狭間今川義元を屠ったことにより、後顧の憂いなく上洛を目指すことが可能となりました。そこで最初の関門として、西隣に隣接する美濃の斉藤氏が立ちはだかっていました。

信長は1561年(永禄4年)5月11日、美濃の稲葉山城主である斉藤龍興が亡くなり、家督を14歳の龍興が継いだことを好機とみて、13日に美濃へ出陣し、14日には長良川を渡り、対峙していた長井甲斐守及び日比野下野守清実らを、安八郡森部において首級約170上げる勝ちを得て、織田・斉藤双方の小競り合いが続いていた墨俣への支配権を固めました。

美濃を攻めるために優位に立った信長でしたが、その後しばらくは美濃への攻略には乗り出すことは出来ませんでした。

なぜなら美濃の斉藤氏を攻略するためには尾張において持てる勢力をすべて借り出さなければなりませんが、その間に尾張が責められないための準備が出来ていなかったからです。

信長は6年もの歳月を掛けてその準備をしましたが、そのひとつが1562年(永禄5年)1月の三河岡崎城主である徳川家康を清州へ招いての同盟でした。

ちなみにこの同盟は清州同盟と呼ばれ、骨肉相食む戦国時代においては珍しく最後まで続くことになり、かつ将来的に上洛という夢を持つ信長にとっては非常にありがたいものでした。

このように後顧の憂いを無くし、西の美濃に再び目を向けた信長は、秀吉に命じて1563年(永禄6月)に小牧山へ城を築かせて攻略の足掛かりとしました。

その翌年には美濃から木曽川を挟んで建つ織田信賢の犬山城を攻め落とし、丹羽長秀に守らすことによって完全に尾張の統一を成し遂げ、美濃への侵攻の準備を整えました。

しかし美濃へ兵を進めるのには問題がありました、というのは美濃と尾張の間に木曽川長良川揖斐川などにより広域の低湿地帯となっており、いつも風雨水害によって進撃を阻まれていたのです。

またそれぞれの川が集まる墨俣という場所があり、そこに砦を築けば敵に対して有利になることから、常に両軍によって激しい争奪戦が繰り広げられており、信長も何とか砦を築くべく色々と策を講じましたが、なかなかうまくいきませんでした。

その難しい作業を秀吉があえて引き受け、長年ここを本拠としていた蜂須賀小六率いる川並衆を味方につけて、効率的に兵を組織することによって、わずか数日で砦を築くことに成功しました。

さらに1567年(永禄10年)8月1日には、西美濃三人衆と呼ばれる稲葉一鉄、安藤守就、氏家朴全を信長陣営に引き込むことに成功しました。

このような条件が整ったことにより、信長はついに美濃攻略に乗り出しました。

《合戦の内容》
1567年(永禄10年)8月15日、信長は三河への遠征と見せかけていた軍勢を反転させ、一気に美濃へ攻めかけました。

あまりに突然の侵攻に対して稲葉山城主・斎藤龍興は各地に分散させていた兵力を集めることが出来ず、信長の進撃を止めるどころか、町中に火を放たれ、城は丸裸にされてしまいました。

翌日、信長は城の四方に鹿垣にて取り囲み、そして一気呵成に城を攻め落としてしまいました。

《合戦の結果》
龍興は何とか城から脱出し、船にて伊勢長嶋へ落ちていきました。一方信長は稲葉山城を本拠とし、それまでは井の口と呼ばれていた町を岐阜と改名し、続いて上洛に向けて動き出しました。