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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

上杉謙信が10万の大軍を率いて攻め込んだ「小田原城攻防戦」

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●神奈川県小田原市
●1561年(永禄4年)
北条氏康(不明)VS上杉謙信(11万5千)

《合戦までの経緯》
北条氏康の攻撃を受けた関東管領上杉憲政(山内上杉)は1552年(天文21年)1月、居城の平井城を捨てて越後の上杉謙信を頼って落ち延びていきました。

上杉憲政からの請願を受けた上杉謙信は、ついに関東への出兵に踏み切り、上野の平井城を奪い返しました。この出兵によって上杉謙信北条氏康との関東の覇権を争う戦いはまさに始まりと告げました。

一度奪い返した上杉憲政の平井城でしたが、1558年(永禄元年)5月、再び押し寄せた北条勢により、奪い返され、憲政は再度越後に落ちていくことになりました。

その際上杉謙信は、失意の上杉憲政より養子にしたうえで関東管領の職を譲りたいという提案を受けましたが、現時点では関東管領にふさわしくないということでそれを固辞し、北条氏を攻め落として本当の関東管領になることを心に誓いました。

そして再度謙信は関東への出兵を行うことになりましたが、その際旧勢力である山内及び扇谷の両上杉や古川公方、また新興勢力として北条氏と対立している岩付城主・太田資正や忍城主・成田長康、金山城主・由良成繁、さらには常陸の佐竹氏や安房の里見氏などの協力を得、北条氏に立ち向かうことになりました。

ただ、太田資正以外は、長いものには巻かれろという姿勢で、もし北条氏の勢いが増せば北条氏になびく可能性もあり、また佐竹氏については奥州への兵を度々繰り出している状況でもあり、なかなか一枚岩というわけにはいきませんでした。

一方、北条氏康の方では、駿河今川義元及び甲斐の武田信玄と婚姻関係を結んだうえで、甲相駿三国同盟を締結し、上杉勢の関東進出に備えました。

《合戦の内容》
甲相駿三国同盟のひとつ、駿河今川義元が1560年(永禄3年)5月、上洛を目指す途中の桶狭間織田信長によって討たれると、謙信はすかさず同年8月に兵約8千を率いて関東に向けて出陣しました。

謙信厩橋城で年を越し、そこで関東の武将を集結させて翌年3月、ついに北条氏の居城である小田原城を、11万5千の兵で囲みました。

しかしながら、謙信は鉄壁の守りを誇る小田原城をなかなか攻略することが出来ず、1ケ月半にわたって城を攻め続けましたが、武田信玄による小田原への援軍や、自ら軽井沢へ進出し上杉勢を側面から牽制するなどの動きもあったことから、それ以上の長陣は自軍にとって不利になると考え、撤退を決定しました。

《合戦の結果》
越後への帰国の途中、1561年(永禄4年)閏3月に鎌倉の鶴岡八幡宮において、謙信上杉憲政より関東管領の職を譲与され、さらに上杉家に伝わる系譜や重代の宝物を譲り受けました。

さらに謙信は、憲政の諱から一字を拝領し、名前を上杉政虎に改めるとともに、その後は関東を不法に占拠している北条氏を征討することを目的として、たびたび関東へ兵を向けました。

ただ謙信は今回、関東の武将たちに対する細々とした配慮が足りず、彼らの支持を貰えなかったこともあり、北条の居城・小田原城まで攻め込んだにも拘わらず、城を落とすことはもちろん、関東に対して拠点を確保することも、さらには上野に関しても維持することも出来ませんでした。

その後も謙信は、自身が没する1578年(天正6年)までに、十数回の関東遠征を行いましたが、ほとんど成果を残すことは出来ませんでした。