【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

侵攻してきた六角義賢を浅井長政が撃破!「野良田の戦い」

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滋賀県彦根市
●1560年(永禄3年)8月
長宗我部元親(2万5千)VS浅井長政(1万1千)

《合戦までの経緯》
もともと浅井家は、北近江半国の守護・京極家の家臣でした。ただその京極家が、浅井亮政の時代に衰退し、その機に乗じた亮政が下剋上を成し遂げました。 

亮政は隣国である越前・朝倉家から支援を得ることに成功し、浅井家は勢力拡大を推し進めましたが、その亮政が没したのち、跡目を継いだ久政は当主として少し器量に欠ける存在でした。

そのため、江南の大名である六角義賢から侵攻された久政は、その圧力に耐えきれず、致し方なしに六角氏と和睦を結んで、その庇護下に入る選択をしました。

その際、久政の嫡男は義賢の偏諱を受けて賢政と名乗り、正室には六角家の重臣・平井定武の娘を迎えることになりました。

そんな中、賢政は1559年(永禄2年)5月、譜代の重臣である赤尾清綱らと共謀し、父の久政を隠居させて自身が家督を継ぐことに成功しました。

そして妻を離縁しえ六角氏へ送り返し、さらに名を長政に代えることなったため、六角氏との和平はここで完全に破られることになりました。

一方、六角義賢の方では、すぐさま子である義治に出兵を命じ、浅井と六角双方が一触即発の状態に陥りました。

《合戦の内容》
そんな中、肥田城主である高野瀬秀隆は1560年(永禄3年)浅井方へつく決心をしました。その報を受けた六角義賢は、肥田城の攻撃をすぐさま開始、その城の周囲58町に渡って、幅13軒の土塁を築き、宇曽川並びに愛知川の水を招き入れて水攻めを試みました。

しかしながら堤防が壊れてしまい失敗してしまいましたが、その後も大軍を投入して肥田城攻略を試みました。しかし城側も必死に防戦し、さらに小谷城に対して援軍を依頼しました。

浅井長政は肥田城を救援するべく、急いで小谷城を出立しましたが、六角義賢の方でも野良田へ兵を進め、宇曾川をはさんで双方にらみ合う形になりました。

その時点での兵力は、宇曾川の東側に陣取った浅井軍が1万1千対する六角軍は2万5千と圧倒的に六角方が優位な状況で、その勢いのまま浅井軍に対して攻撃を仕掛けました。

浅井軍は厳しい状況におかれましたが、長政はそこで起死回生の策として兵を二手に分け、そのうちの一隊を率いた長政は自ら六角方の本陣に攻め込み、猛攻を加えました。

8月の中旬に始まったこの戦いは、双方ともに激しい戦いを繰り広げましたが、最終的には浅井方がなんとか勝ちを収めました。

《合戦の結果》
合戦で負けを喫した六角義賢は、箕作城へ撤退を余儀なくされましたが、義賢は転んでもただでは起きず、美濃の斉藤龍興と同盟を結んで浅井氏を牽制することに成功しました。

しかしながら、この合戦から3年後に観音寺騒動のため義賢と義治の父子は居城である観音寺城を追われることになりました。 

その後、六角家の重臣・蒲生定秀の尽力によって観音寺城へ復帰出来ましたが、六角家の家勢の衰退は明らかとなっており、合戦の8年後に織田信長の上洛を阻む戦いを挑みましたが、抗しきれず信長によって滅ぼされる事になりました。

逆に戦いに勝利し佐和山上で休息した後、小谷城へ戻った浅井長政は、江北における戦国大名としての地位を確立するに至りました。

ただ、隠居の久政に対してある程度の発言力が残されており、完全に権力の移譲が出来ていなかったため、このことが最終的に織田信長との同盟破局、ひいては浅井家の滅亡にまでつながる事になりました。