【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

長宗我部国親、長年の悲願である本山氏の打倒「土佐長浜の戦い」

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高知県高知市
●1560年(永禄3年)5月
●長宗我部国親(1千)VS本山茂辰(2千)

《合戦までの経緯》
戦国時代初期の土佐には、のちに四国を統一する長宗我部氏をはじめ、京都から流れてきた幡多郡中村の一条氏や安芸郡の安芸氏、長岡郡の本山氏、高岡郡の津野氏、吾川軍の吉良氏、高岡郡の大平氏、香美郡の香宗我部氏などといった豪族たちが国内に乱立していました。

長宗我部氏は、元親の祖父である兼序が一時的に勢力を拡大したものの、1508年(永正6年)その兼序に反感を持っていた本山氏が、山田氏や吉良氏と語らい反長宗我部連合を作って長宗我部氏の居城である岡豊城へ攻め込みました。

長宗我部氏は必死に防戦したものの、力及ばす兼序は城を枕に討ち死にしてしまいました。そんな中、落城寸前の城から嫡子・国親は脱出し、家臣に伴われ中村の一条氏の元へ落ちていきました。

国親は一条氏の庇護のもと立派に成長し、1518年(永正15年)には一条房家の計らいによって岡豊城への復帰がかないました。

その後、国親は一条氏の仲立ちによって父・兼序の仇である本山氏に自身の娘を嫁がせ婚姻関係を結んだものの、復讐の炎が消えることはありませんでした。

国親は1536年(天文5年)あたりから、領土の拡大に邁進し、1549年(天文5年)には山田氏を、1556年(弘治2年)には香宗我部氏を破り、勢力を伸ばしていきました。

一方、本山氏の方でも、吉良氏を討つなどして領土を拡大し、力を増していましたが、当主の梅慶が1555年(弘治元年)に病没すると、国親はここぞとばかりに本山氏に対して兵を挙げ、小競り合いを繰り返した後、ついに1560年(永禄3年)5月に長浜城周辺で決着をつけることになりました。

《合戦の内容》
長宗我部勢は5月26日の夜半、本山氏の長浜城へ奇襲攻撃を掛けました。その際、長曾我部家を牢人していた福留馬之丞というものが、生活の糧として長浜城の普請に加わっていたのを幸い、長曾我部家への帰参を許す代わりに攻略の手引きをするよう働きかけ、結果福留は国親の誘いに応じて長宗我部勢を城に招き入れ、長宗我部家は長浜城を手に入れました。

本拠である朝倉城にて、長浜城が落城したという知らせを受けた本山茂辰は約2,000の兵を率いて長浜城奪還に向かい、長宗我部勢約1,000と5月27日の夜半に長浜城の周辺で戦いを繰り広げましたが、長曾我部勢の激しい攻勢により本山氏は劣勢に追いやられ浦戸城に退却しました。

《合戦の結果》
長宗我部勢はその勢いのまま6月の初旬に浦戸城を落とし、さらに朝倉城へ向けて進撃を開始、まずはその支城である潮江城や大高坂城、泰泉寺城を抜いて、攻略のための足場を固めました。

そして1562年(永禄5年)9月16日から3日間かけて朝倉城における攻防戦を繰り広げ、苦戦しつつも翌1563年に攻略に成功しました。

さらにその後、本山氏はその本貫の地である本山城に立て籠もって抵抗を続けていましたが、1564年(永禄7年)に城を放棄して瓜生野城へ退き、1568年(永禄11年)ついに本山氏は長宗我部勢の猛攻を支えられず降伏し、国親は宿願を遂げることに成功しました。

ちなみに本山氏の当主で元親の甥にあたる親茂は岡豊城に監禁され、最後は元親によって毒殺されたといわれています。