【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

美濃の斎藤道三が息子・義龍に討たれた「長良川の戦い」

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岐阜県岐阜市
●1556年(弘治2年)4月20日
斎藤義龍(1万7千5百)VS斎藤道三(2千7百)

《合戦までの経緯》
1542年(天文11年)に油売りから身を起こした斎藤道三が、美濃の守護職である土岐頼芸を国外に追放し、美濃一国の主となりました。

土岐頼芸は美濃から追放されたのち、尾張下四郡を収めている織田信秀を頼りました。このころの信秀は尾張の統一並びに美濃への侵攻を画策しており、頼芸が尾張に落ち延びてきたのを良い機会とし、主君を追放した謀反人を討つという名目で、美濃への軍事行動を開始しました、

それに合わせたように越前の朝倉氏も頼芸の守護への復帰の援助という大義名分を使って斉藤氏を包囲する一翼を担いました。

そして1547年(天文16年)9月、信秀は尾張の兵を率いて、斉藤氏の本拠である稲葉山城へ侵攻を開始するものの、美濃勢の逆襲を受けて敗走、これによって尾張勢は5,000もの兵を失いました。

道三は尾張勢を撃退したものの、尾張勢と越前勢による挟撃態勢及び美濃国内での反対分子の活動に苦しんでいる中、1548年(天文17年)に織田勢との間に停戦協定を結ぶことに成功し、翌1549年(天文18年)には信秀の嫡男・信長に自身の娘を嫁がせることになりました。

というのも、信秀側でも当時は尾張統一の途中、且つ三河へも触手を伸ばし松平家や今川家と軍事衝突を繰り返しており、道三側との利害が一致したため、お互い戦うよりも手を結ぶ方が得策であるという思いから同盟の運びとなりました。

尾張との同盟は、道三の読み通り、美濃の安定支配を強化することになりましたが、その一方で道三の嫡男である義龍との確執が生じ始めてきました。

その理由としては、織田家との同盟締結後、道三は家督を義龍に譲り、形式上隠居しました。ただ、道三は義龍とは腹違いになる次男・孫四郎や三男・喜平次を偏愛するあまり、義龍を廃嫡する動きに出たのです。

その動きを知った義龍は、1555年(弘治元年)11月22日に道三より先手を打って、孫四郎と喜平次を稲葉山城へ呼び寄せ謀殺してしまいました。

このことにより、道三と義龍の亀裂は決定的なものとなり、ついに親子相食む戦いに発展していきました。

《合戦の内容》
孫四郎たちの死は、稲葉山城の麓の館にいた道三に知らされました。知らせを聞いた道三は、城下に火を放った後、山間部の山県へ落ち延びていきました。

その地で軍勢を集結させた道三は、翌1556年(弘治2年)4月18日に鷺山城を手に入れ、長良川を挟んで義龍軍と対峙しました。

そして4月20日の早朝、ついに戦いの火ぶたは切られましたが、義龍軍1万7500に対して、道三軍は3000に満たない兵力といった多勢に無勢の状態のなか、義龍軍は数にものを言わせて長良川を次々に渡河し、道三軍に襲い掛かりました。

その際、道三は義龍の兵の進退の巧さを見て、義龍に対する自らの評価が間違っていたことを思い知りました。そんな乱戦の中でついに道三は討ち取られ、親子の骨肉の争いは息子・義龍に軍配が上がりました。

《合戦の結果》
道三の死によって、斉藤家と織田家の同盟は自然消滅となり、織田家による美濃への侵攻は改めて開始されました。

戦上手だった義龍が生きているうちは、織田軍も攻めあぐねていましたが、義龍が1561年(永禄4年)5月11日に病没後、嫡男の龍興が斉藤家を継ぎましたが、最後は織田家に滅ぼされてしまいました。