【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

武田信玄がついに村上義清の戸石城攻略に成功「戸石城の攻防」

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●長野県上田市
●1550年(天文19年)
武田信玄(不明)VS村上義清(不明)

《合戦までの経緯》
1541年(天文10年)6月、父親である武田信虎駿河へ追放した武田信玄武田氏の当主の座につきました。その信玄はまず足元の甲斐の国を固めることに尽力し、さらには隣国である信濃へも触手を伸ばしていきました。

その頃の信濃というのは小笠原長時(林城主)や村上義清(葛尾城主)、諏訪頼重(上原城主)らを中心とした小豪族が乱立している状態でした。

信玄はそんな信濃の情勢のなか、最初に諏訪氏を攻撃目標として定め、1542年(天文11年)7月に攻め込んだ結果、諏訪頼重は捕えられ、信玄によって自害に追い込まれました。

そうして信玄は信濃を攻略するための戦略拠点を確保に成功し、続いて葛尾城を居城とする北信濃の雄・村上義清との死闘を開始しました。

武田信玄村上義清は1548年(天文17年)2月14日、上田原で激突し武田軍は序盤で優位に立ったものの、敵を深追いしてしまい、逆に村上勢に包囲されることになりました。

結果、戦局は逆転し有力な武将である板垣信形や甘利虎泰が討ち死するなど大敗を喫してしまいました。

信玄が敗れたと聞いた信濃の小豪族たちは、小笠原長時を盟主とした反武田連合を組織して諏訪へ攻め込むなど活発に動き出ました。

信玄は上田原での敗戦によって地に落ちた評判を取り戻すため反撃を開始し、1548年(天文17年)7月19日の早朝、塩尻峠あたりに集まっていた反武田連合である小笠原長時らの軍に対して奇襲攻撃を仕掛けました。

対する反武田連合軍側では寝込みを襲われたこともあり敗走、この武田軍の勝利によって武田軍の信濃での状況が再度好転していきました。

《合戦の内容》
武田軍は1550年(天文19年)8月、村上義清と改めて雌雄を決するために武田氏と村上氏の勢力の中間に位置する戸石城へと攻めかかりました。

1ヶ月にわたる攻防の結果、信玄は10月1日に攻略を断念し、撤退を開始しました。その際、城を出てきた村上勢からの追撃を受け、何とか振り切った時には横田高松をはじめとする約1,000名の兵を失っており、この戸石崩れといわれる敗戦によって、戸石城は難攻不落の城として近隣に鳴り響きました。

ただその翌年、本拠である真田郷を村上氏によって奪われ、武田家に仕えて虎視眈々と打倒村上、そして本領回復を目指していた真田幸隆の内応工作によって、1551年(天文20年)4月、戸石城はあっけなく武田勢の手に落ちてしまいました。

村上義清は上田原及び戸石城という2度の戦いにおいて武田勢を撃退し、武名を大いにとどろかせたものの、小笠原氏の林城を攻略した武田氏の優位は変わらず、その優位に立つ武田氏からの内応工作を受けた村上方の武将たちの自身の保身を図った寝返りの結果による落城でした。

《合戦の結果》
村上氏がった痛手はかなり大きく、その後本拠である葛尾城も1553年(天文22年)に失うことになった村上義清は、越後の上杉謙信を頼って落ち延びていきました。

結果、小笠原氏及び村上氏を信濃から駆逐した武田信玄は、信濃一国をほぼ手中に収めることとなりました。

他方、村上義清だけでなく小笠原長時についても自国への亡命を受け入れていた越後の上杉謙信は、彼らからの本領復帰の希望を受けて武田氏との全面対決に乗り出していくことになりました。