【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

豊臣家の滅亡を招いた戦国時代最後の戦い「大阪の陣」

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大阪市
●1614年(慶長19年)~15年(元和元年)
豊臣秀頼(10万)VS徳川家康(20万)
《合戦までの経緯》
関ヶ原の戦いが終わって3年たった1603年(慶長8年)2月、家康は武家の棟梁である征夷大将軍に任ぜられ、はれて江戸幕府を開きました。

それでも家康は、大坂城にいる豊臣秀頼に対して、決して冷遇することはなく、敬意を払うことを忘れませんでした。

というのも、先の関ヶ原の戦いにおいて家康に味方をしてくれた加藤清正福島正則などの豊臣恩顧の大名は、石田三成憎しの思いで味方に付いただけであって、戦後も豊臣家への忠誠は変わっていなかったからです。

そんな家康も64歳になった1605年(慶長10年)4月、年齢的な理由により将軍職を嫡子の秀忠へ譲り、自身は駿府へ隠居することになりました。

将軍宣下のために上洛した秀忠は、北政所を通じて秀頼に上洛を促しましたが、豊臣方において家老である片桐且元の奔走もむなしく、不調に終わりました。

70歳になった家康は、1611年(慶長16年)3月、後陽成天皇の譲位の際に上洛し、再度秀頼に対して上洛を促したところ、豊臣方では今回も家康の方から大阪に出向くのが本来の形とする意見が大勢を占めていましたが、且元や清正による懸命の説得によってついに家康と秀頼の対面が実現しました。

その際、家康は19歳に成長した秀頼をみて、自身が亡くなったあと豊臣が天下に返り咲くのではとの焦りを覚え、大阪の豊臣を攻める意思を固めたといわれています。

その後、1614年(慶長19年)火災によって焼失した方広寺の鐘に刻まれた銘に対して言いがかりをつけ(方広寺鐘銘事件)、大坂方ではこれを受けて決戦の覚悟を固め、世にあふれる牢人を召し抱え始めました。

さらに豊臣恩顧の諸将へ参集を呼び掛けましたが、世はすでに徳川のものと見ていた諸将たちは誰一人として豊臣方に期待に応えませんでした。

ただ、関ヶ原の戦いの後に牢人となった真田幸村、長曾我部盛親、後藤又兵衛などの勇将が大阪城へ集まり、この時点での総兵力は15万となりました。

一方、譜代の家臣ならびに豊臣恩顧の大名たちを味方に付けた家康は、10月1日諸大名へ出陣を命じ、大坂城を囲みました。

籠城戦が始まった大坂城で、家康はあえて力攻めをせず、和睦の交渉を続けながら同時に舶来の大砲で砲撃を加えて城内の淀殿らをおびえさせ、その結果12月17日大坂城の二の丸ならびに三の丸の堀と櫓を取り壊すことを条件として、和睦が結ばれました。

しかしながらいざ和睦が成立すると、本来ニの丸の堀や櫓は大坂方が自ら取り壊すという条件でしたが、家康方はそれを無視してあっというまにすべて取り壊してしまいました。これに対する抗議も後の祭りで、裸城にされた大坂方では最後の一戦を交える覚悟を決意しました。

《合戦の内容》
豊臣家の存亡を掛けた大坂夏の陣は1615年(元和元年)5月5日から7日に掛けて行われました。

実際には大和郡山や堺において4月下旬から前哨戦といえる戦いが行われてましたが、いずれも徳川方が勝利しました。

さて、5月6日の道明寺での戦いでは後藤又兵衛が、八尾・若江では木村重成が討ち取られ、7日には家康勢15万に対し、大阪方は5万5千と兵力の差は歴然としていましたが、そんな中で真田幸村は、最後まで死力を尽くし、家康をあと一歩のところまで追い詰めましたが、矢尽き刀折れて華々しく散ってゆきました。


《合戦の結果》
この戦いののち、徳川政権の基盤はしっかりと固まり、以後250年間武器を用いることのない、天下太平の世が続くことになりました。