【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉死後の覇権争い、天下分け目の戦い「関ケ原の戦い」

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岐阜県不破郡関ヶ原
●1600年(慶長5年)9月15日
徳川家康(7万4千)VS石田三成(9万5千)
《合戦までの経緯》
天下統一を果たし朝鮮までも征服しようとしていた秀吉は、1598年(慶長3年)5月に入ると病状が悪化してきたため、五大老五奉行制度を用いて政権を運営しました。

その秀吉が8月18日に没すると、政権内部で文治派と武断派の対立が顕著になり、その中でも特に家康は秀吉が定めた決め事を破って、武断派の有力大名との縁組を重ね、石田三成をはじめとする文治派との対立を深めました。

政権の長老であった前田利家が亡くなると事態は動き、三成は武断派の諸将から襲撃されましたが、その難から逃れるため、対立している家康のもとに逃げ込みました。

家康は表面上三成を快く受け入れ、武断派諸将を説いて引き揚げさせると、これを機に三成の奉行職を解いて佐和山城への蟄居を命じ、自身は伏見城へ入って実権を握りました。

さらに家康は上杉景勝に謀反の企てがあるとし、身の潔白を証明するために上洛と誓紙の提出を申しつけましたが景勝はこれを拒否、怒った家康は1600年(慶長5年)5月3日会津への東征を表明しました。

実はそれまでに、三成と景勝の間で、家康が東征している間に三成の方でも兵をあげ、東西から家康を挟撃しようとする話ができており、早速秀吉の嫡子・秀頼を擁した三成の陣営(西軍)が発足し、盟主には毛利輝元が立てられ、7月17日に家康の陣営(東軍)へ宣戦布告の書状を送りました。

同日、三奉行連名で家康の非を鳴らして大阪への参集を呼び掛ける手紙を諸大名へ送り、それに応じた諸将が集まって軍議を開いて、それぞれに任務が与えられました。

一方、6月18日に伏見を発った家康は、会津への途上で三成の決起を知り、小山において軍議を開いて、諸将の去就を図り、参加していたほとんどの武将からから改めて味方する旨の誓いを受け、諸将に対して西上を命じました。

家康は江戸にもどり、諸将らの忠誠心が本物かを確かめていたが、23日に美濃に入った東軍の諸将らが家康の期待通りの働きをしたのを見て、9月1日に江戸を発ち、14日の昼ころ赤坂にて諸将を集めて軍議を開き、関ヶ原決戦に備える配置を決め、家康自身も桃配山に陣を構えました。

西軍は破竹の勢いで8月には伏見城、案野津城、松坂城を、9月には田辺城を落とし、9月14日に他の諸将と共に大垣城から決戦の地である関ヶ原を目指しました。


《合戦の内容》
前日からの大雨はあがり、霧がかかった中、9月15日午前8時、東軍の松平忠吉井伊直政らが宇喜多隊へ射撃したのを皮切りに合戦は始まりました。

両軍はそこかしこで激しい攻防が繰り広げ、開戦後1時間経って東軍の集中攻撃を受けた石田隊は苦戦を強いられていたものの、昼頃までは一進一退の状況が続き、一時は西軍が優勢となっていました。

三成は有利に戦闘を行う中、天満山から狼煙を上げ、南宮山の毛利・吉川、松尾山の小早川へ戦闘に加わるよう合図を送りましたが、両隊とも事前に家康へ内応の約束を取り付けていたためともに動かず、逆に家康から鉄砲の一斉射撃を持って恫喝された小早川秀秋は西軍を裏切って大谷隊へ襲い掛かり、この裏切りによって午後一時ころには勝敗は決し、三成らは敗走していきました。

《合戦の結果》
この合戦は、単なる武将同士の争いというものではなく、秀吉没後の政権のその後の動向を決めるためターニングポイントで、さらにいうと家康の天下取りの過程において最も重要な合戦と位置づけられています。