【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

関東の覇者・北条氏を屠りついに秀吉が天下統一「小田原合戦」

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●神奈川県小田原市
●1590年(天正18年)3~7月
豊臣秀吉(22万)VS北条氏政(5万6千)
《合戦までの経緯》
豊臣秀吉は自身が天下人になりつつあることを誇るように、御陽成天皇聚楽第に迎えるために大規模な行列を整え都のなかを練り歩きました。

この盛儀には、徳川家康をはじめとする全国の有力な諸将が揃って参加し、天皇ならびに秀吉に対して忠誠を誓いました。

そんな中で北条氏政のみは、秀吉からの上洛要請を氏政の摘男・氏直を娘婿とする家康から再三働きかけられていたにもかかわらず、言を左右にして引き延ばしていました。

氏政が上洛を拒む理由の一つに、上野沼田領の問題がありました。その内容とは武田氏滅亡後、徳川と北条の間で、1582年(天正10年)に甲斐と信濃は徳川が、上野は北条が獲るという協定を結んでいたのですが、上野沼田はすでに真田昌幸が領土としていました。

この上野沼田領を巡って最終的に豊臣政権が介入し、氏政上洛の約束と引き換えに、秀吉の裁定によって沼田領の3分の2を北条側に渡すという沼田裁定が行われました。

しかしながら、氏政はこの裁定を無視し、真田領であった名胡桃城を攻めたため、秀吉は5ヶ条からなる朱印状を11月24日付けで氏政へ送りつけ宣戦布告しました。

秀吉との戦いを覚悟した氏政は56,000の兵を動員、一方秀吉は全国の諸将に22万の兵を持って参陣するよう指示を出し、自身は唐冠の鎧に金礼緋緘を身にまとい、島津を下した九州の陣の先例にならって1590年(天正18年)3月1日に都を発ちました。

19日に駿府を経て、27日には沼津の三枚橋についた秀吉は、すぐさま小田原城の支城を攻撃し、29日には秀次が山中城を落としました。

ただ北条氏規が500の兵で守る韮山城がしぶとく持ちこたえているのを見た秀吉は、この戦いが長期戦になることを予想し、箱根湯本に着くと早速石垣山に城を築いて、ここへ淀殿や諸将の奥方ならびに茶人の千利休を呼び寄せ、日々茶会や宴会を開いて長い戦いに対する不満を紛らわすよう図りました。

一方で小田原城にある氏政・氏直親子は、東西25町、南北20町という広大な堅城に守られ、かつては謙信や信玄の猛攻にも耐え抜いた経験から、今回の合戦を楽観視していました。

《合戦の内容》
秀吉は4月上旬、北条一族や重臣らがそれぞれ守る小田原城の九つの城門に対して、それらを攻める武将の配置を決め、丹羽長秀細川忠興などの歴戦の兵をそれぞれあてがいました。

また小田原を中心に関東周辺に配置されたそれぞれの支城にも豊臣軍が攻め寄せ、その支城の中でも三大支城とされる岩槻・鉢形・八王子は頑強に抵抗し、落城までに2ケ月を要しました。

さらには関東7名城のひとつである忍城では、周囲が沼沢ということもあり、寄せての石田三成増田長盛らが水攻めを試みましたが、城兵が辛抱強く踏ん張り、小田原が落城した後の7月16日まで持ちこたえました。

6月に入ると、支城の陥落が相次ぎ、小田原城も先が見えかけてきたころ、秀吉は力攻めをせず、北条方の各武将たちと和議を結ぶことによって、開城させる方針に出た結果、早川口を守る重臣の松田憲秀の内応、6月24日には韮山城主の北条氏規との講和に成功し、ついに7月5日氏直が秀吉へ投降し、11日には氏政・氏照が自害することによりこの合戦に幕が引かれました。

《合戦の結果》
この戦いの結果、北条氏は滅亡し、秀吉は晴れて天下を統一することに成功しました。その後秀吉は関東ならびに奥州の諸大名の措置を行い、北条氏の領地はほとんどそのまま家康に与えられました。