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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

伊達政宗が名門・蘆名氏を下し奥州の覇権を確立「摺上原の戦い」

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福島県耶麻郡猪苗代町
●1589年(天正17年)6月5日
伊達政宗軍(6千)VS蘆名義広軍(7千)
《合戦までの経緯》
伊達政宗は1584年(天正12年)に伊達家の家督を継いだのち、積極的に勢力の拡大を図ったが、その結果、複雑な血縁関係が絡み合った奥州ならびに北関東の諸大名、特に蘆名氏や佐竹氏を敵に回す事になりました。

また1585年(天正13年)には畠山義継によって政宗の父・輝宗が死ぬことになったことを機に、佐竹義重ら反伊達連合は政宗に攻められたものの、人取橋にてなんとか撃退することに成功しました。

その後、政宗は畠山氏の居城である二本松城の攻略を開始しました。畠山氏も蘆名氏や佐竹氏の協力を得て必死に抵抗しましたが、伊達氏へ内応するものが相次ぎ、1586年(天正14年)7月、ついに畠山氏は自ら城を焼き、蘆名氏を頼って会津へと落ちることになり、政宗は見事に父の弔い合戦に勝利を収めました。

この二本松の攻略により、政宗の欧州制覇が進むかに見えましたが、そこに奥州探題・斯波氏の末裔である大崎氏が立ち塞がりました。

1588年(天正16年)1月、政宗は大崎氏の内訌に乗じて、大崎領へ進撃しましたが、2月2日の中新田の戦いで敗れてしまい、あげくにその敗戦が欧州各地に伝わると、佐竹氏・蘆名氏を中心とする反伊達勢力が一気に勢いづき、伊達領へ向けて進撃を開始しました。

伊達氏と反伊達勢力は6月18日に戦いを開始、兵力は反伊達勢力が多かったものの、伊達勢は兵力の劣勢を補うために、高所に陣を敷いて戦ったため、反伊達連合は、思うように攻めきれず、長期戦の様相を呈してきたため、7月10日に一旦和議を結び、兵を引きました。

《合戦の内容》
1589年(天正17年)5月4日、伊達勢は安子島城を、その翌日には高玉城を攻略し、さらに6月4日には猪苗代城の猪苗代盛国が蘆名氏を見限り、伊達に付くことを決め、伊達氏を猪苗代城へ引き入れました。

一方で蘆名氏は猪苗代氏の裏切りの報に接し、伊達勢を覆滅し猪苗代城を奪還すべく、居城である黒川城を発しました。

そして1589年(天正17年)6月5日、伊達勢と蘆名勢が磐梯山麓の摺上原で激闘を開始しました。最初は、蘆名氏が優位に立っていましたが、風向きが西に移ってくると攻守も変じ、伊達勢が蘆名勢を押し返して、ついに蘆名勢は総崩れとなり、黒川城へ向けて敗走していきました。

伊達勢はすぐに追撃を開始し、11日には黒川城を落とすことに成功し、蘆名義広は実父・佐竹義重のもとへ敗走しましたが、蘆名氏の重臣である金上盛備、佐瀬種常・常雄らは戦死し、さらに約3,580の兵が伊達軍に討ち取られたため、奥州の名族である蘆名氏はここに滅亡の時を迎えました。

《合戦の結果》
伊達氏の版図は蘆名氏の滅亡後、現在でいう福島県ならびに宮城県の大部分、さらに山形県の南部にまで及ぶほど急速に拡大しました。

しかしながら政宗が奥州で戦いに明け暮れている間、豊臣秀吉によって戦国の乱世は終わりを告げようとしており、政宗が蘆名氏を滅ぼしたころには、秀吉はほぼ天下統一を成し遂げようとしていました。

摺上原の合戦の5ケ月後には秀吉による北条氏討伐の命令が下され、政宗にも北条征伐に参陣するよう秀吉からの使いがきました。

政宗は秀吉への屈服を潔しとせず、ギリギリの段階まで態度を明確にしませんでしたが、最終的には秀吉の傘下に入ることを決意し、小田原を包囲中の秀吉の前に跪きました。

ただ、その後も政宗は表面上では秀吉や家康といった天下人屈服しているものの、内心では天下への野望は捨てなかったといわれています。