【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

信雄と家康が勢いに乗る秀吉に挑んだ「小牧・長久手の戦い」

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●愛知県小牧市・愛知県愛知郡長久手町
●1584年(天正12年)4月
羽柴秀吉(3万)VS徳川家康(1万7千)
《合戦までの経緯》
1583年(天正11年)4月、賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勝家を屠った羽柴秀吉は、織田信長の次男・信雄を利用し、3男・信孝を自害(1582年)させました。

その信雄に対して、1584年(天正12年)1月、秀吉は他の諸将らとともに新年祝賀の上洛を促すも、信雄は三人の家老(津川義冬、岡田重孝、浅井長時)からの諫言を入れてこれを拒否、さらに2月には秀吉自らが近江の三井寺へ信雄を訪ねたが、信雄は秀吉の到着前に三家老を残して伊勢長島へ帰ってしまいました。

残された三家老たちが秀吉に懐柔され、秀吉の傘下にはいりましたが、それを知った信雄は三家老を弑殺、ここに信雄は秀吉への敵対することはっきりと打ち出しました。

信雄は信長の盟友であった徳川家康に縋り付き、家康もこれを受けて3月13日に信雄の居城である清州城に入って、秀吉と戦うべく四国の長曾我部元親や越中佐々成政紀州雑賀衆根来衆らに働きかけ、秀吉包囲網を築きました。

逆に秀吉も、信雄が三家老を殺したことを知ると激怒し、3月8日には信雄を征伐すべく、堀尾吉晴に伊勢への出陣を命じ、自身も11日には大軍を率いて坂本に入りました。

秀吉と戦うことを決めた家康は、7日に浜松を発って13日に清州に入り、そのまま伊勢に向かうつもりでしたが、信雄の属城である犬山城が秀吉方の池田元助率いる5,000の軍勢に攻められ善戦むなしく落城したことを聞くと、清州と犬山の中間地点にあり軍事上きわめて重要な小牧山に本陣を構え、その周囲に砦を築きました。

《合戦の内容》
秀吉軍の内部では、池田軍の活躍を聞いた森長可が功を焦り、3月17日に小牧山の家康軍を攻めようと試みましたが、家康の家臣である酒井忠次榊原康政らに阻まれ退きました。

この敗退を知った秀吉は大いに怒り、3月24日に自ら30,000の兵を率いて岐阜に到着すると、28日には犬山城へ入り、さらには楽田に本陣を設け、南の二重堀から北の青塚までにかけての砦の守備を固め、家康・信雄連合軍と本格的に対峙することになりました。

そのまま膠着状態が続くなか、4月を迎えると池田恒興森長可、さらには秀吉の甥である三好秀次らが長躯家康の本拠地である三河へ攻め込む作戦に出ました。

しかしながら9日の朝、その動きを事前に察知した家康軍の奇襲によって池田恒興・元助親子ならびに森長可が戦死することになってしまいました。

5月、秀吉軍は尾張・美濃にある信雄の属城である加賀野井城、奥城、竹ヶ鼻城を大軍にて順次攻略し、6月10日には竹ヶ鼻城を水攻めで落とした後、13日に大垣を経て28日に大阪城へ戻り、戦いは小康状態に入っていくことになりました。

《合戦の結果》
9月に入って、秀吉は家康に和議を申し入れたが断られ、伊勢・尾張・美濃において小競り合いが続きました。

秀吉は9月17日に尾張からいったん兵を引き上げ、10月になると信雄との講和へと動き始め、11月15日秀吉へ伊賀と伊勢半国の割譲することを条件として和議が結ばれました。

はしごを外された形になった家康は、秀吉と戦う大義名分を失い、12月に秀吉へ次男の秀康を養子として差し出すことになり、ここに合戦は終わりを迎えました。

翌1585年(天正13年)3月21日、秀吉は10万の兵を率いて、この戦いで家康・信雄に味方した根来衆および雑賀衆の討伐に乗り出し、共に秀吉に下ることになりました。