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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

加藤清正、福島正則ら賤ケ岳七本槍が大活躍!「賤ケ岳の戦い」

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滋賀県伊香郡木之本町
●1583年(天正11年)4月20日~23日
羽柴秀吉(5万)VS柴田勝家(2万)
《合戦までの経緯》
山崎の合戦のあと、1582年(天正10年)6月27日に織田家の重臣たちが、信長の後継者ならびに遺領の分配を行うためのいわゆる「清須会議」を尾張の清州城にて開きました。

その中で、柴田勝家は信長の三男・信孝を後継者に押しましたが、この会議を完全にコントロールした羽柴秀吉によって、当時3歳だった信長の嫡孫である三法師が後継者と決まりました。

今までは信長の家臣団の中で一番の実力者であった勝家はこの結果を受けて、秀吉に対する不満を徐々に強めていきました。

同年12月、雪に閉じ込められ、動くことができない勝家をよそに、秀吉は信長の次男信雄を擁し、5万の大軍を率いて柴田勝家の養子である勝豊を降し、続いて勝家方の信孝が籠る岐阜城を約3万の軍勢で囲みました。

さらに翌1583年(天正11年)3月には勝家の味方である滝川一益亀山城に攻めはじめると、ついに勝家が2万の軍勢を率いて南下し、勝家軍の先鋒の佐久間盛政は8日に行市山へ、勝家本体は12日に柳ケ瀬へ到着すると、秀吉軍も美濃から戻って木之本まで陣を進め、勝家軍とにらみ合う形になりました。

その後しばらく膠着状態が続きましたが、4月になると秀吉が兵を引いた岐阜城の信孝が、滝川一益と示し合わせて再び兵をあげたため、秀吉は16日美濃へ進軍するも、揖斐川の氾濫により大垣城へ入りました。

《合戦の内容》
秀吉が近江を空けたのを機に、4月20日15,000の兵を率いた佐久間盛政と柴田勝政が、大岩山に布陣した秀吉方の武将・中川清秀の陣へ、さらには岩崎山の高山右近、賤ヶ岳の砦の桑山近晴に攻めかかりました。

この知らせを大垣城で受けた秀吉は、大垣から木之本までの50キロをわずか5時間で馳せ戻り、全軍に対して翌21日4に反撃する旨を命じました。

一方で盛政の方でもこの動きを探知し、退却に掛かりましたが、この退却は暗夜のため非常に困難を極めました。この退却をあらかじめ予知していた秀吉は、自身の馬廻り隊までも追撃に駆り出し、逃げ散る盛政・勝政の北国勢を壊滅させました。

尚、後世に有名な賤ヶ岳七本槍と呼ばれる秀吉子飼いの武将たちが抜群の働きをし、柴田軍に大打撃を与えたのはこの一戦においてとなります。

勝家の本体は、盛政が大岩山付近で攻撃を受けている際、退却の命令を発していましたが、盛政がなかなか引かなかったため、その場を動くことができませんでした。

ただ、このままでは秀吉軍に側面を襲われる可能性もあり、さらには後詰として出陣していた前田利家が突如として戦線離脱したことも手伝い、そのまま越前に向かって敗走していきました。


《合戦の結果》
4月23日、秀吉は前田利家の軍勢も加えて3,000の兵で守る北ノ庄城を攻め、追いつめられた勝家はその晩、重臣たちを集め最後の酒宴を開き、翌日の秀吉軍による総攻撃のなか、天守においてお市と家臣80余名らとともに自害しました。

この合戦は賤ヶ岳を中心とした局地戦でしたが、戦いの意義においては信長の後継者を争いということであり、勝利を収めた秀吉には多くの織田氏の旧臣が服従するようになり、特にこの合戦での各武将の功績が、この後の豊臣政権においての役割に大きく影響しました。