【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

表裏比興の者と呼ばれた真田昌幸の面目躍如「上田城の攻防」

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●長野県上田市
●1585年(天正13年)8月
真田昌幸(3千)VS徳川家康(8千)
《合戦までの経緯》
戦国時代において名将として知られる真田昌幸はもともと真田幸隆の三男でしたが、1575年(天正3年)長篠の合戦で二人の兄が討ち死にしてしまったため、真田家の当主の座が回ってきました。

その昌幸は長篠の合戦後、主である武田勝頼の勢いが衰えていく中で、自身の本拠地である戸石城周辺をしっかりと固めたほか、上野方面にも積極的に打って出て、沼田城を手に入れるなど領土の拡大を図っていました。

そんな中、ついに武田氏が1582年(天正10年)織田信長に滅ぼされてしまい、武田氏の領国であった信濃は論功行賞により木曽義昌や森長可らに与えられることになりました。

昌幸は武田氏滅亡後、表面上では信長に忠誠を誓いつつも、胸の内では独立の道を探っていました。

そして1582年(天正10年)6月2日、本能寺の変により信長が死去すると、昌幸は上杉謙信の南下を牽制するために、相模の北条氏に従うことになりました。

しかし9月になると、沼田城を巡る対立により、北条氏を見限って徳川家康へ従属することになりました。そんな状況下でも、昌幸は領国の基盤をしっかりと固め、1583年(天正11年)には上田城の築城に掛かり始めました。

さらに1585年(天正13年)7月、北条氏直からの要請により家康が沼田城の明け渡しを要求してきたのを昌幸が拒否したのを機に、家康の元を離れ、天下統一に邁進する豊臣秀吉と同盟を結んでいた上杉謙信に接近し、和睦の証として幸村を差し出してその庇護下に入りました。

一方昌幸の造反を知った家康は8月、真田を討伐するため、上田城へ軍を派遣しました。

《合戦の内容》
真田勢3,000は、上田城に昌幸、戸石城には長男の信幸、支城の矢沢城には従兄弟の矢沢頼康と上杉の援兵と兵を分けてそれぞれ籠城し、徳川勢を迎え撃ちました。

一方徳川勢は8,000で、倍以上の兵数を頼みに力押しし、上田城に攻めかかりました。しかし大手門を突破し、二の丸の石垣に取りつくやいなや、大石とともに鉄砲や弓矢が雨あられのごとく降り注がれました。

大混乱に陥った徳川勢は、そのまま敗走に移るのをみた真田勢は、待ってましたとばかりに城から出撃して追撃に掛かり、そこに戸石城と矢沢城の兵も加わって、神川を渡河中の徳川勢に襲い掛かり、完膚なきまでに打ち負かしました。

その後も小競り合いが繰り返されましたが、秀吉の仲裁により昌幸と家康は和議を結びましたが、この敗戦は家康にとって終生忘れられないものとなりました。
《合戦の結果》
昌幸は徳川勢を撃退したことにより、その武名は天下に大きく鳴り響くことになり、豊臣政権下では9万2,000石の所領を安堵されました。
その後1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際に昌幸は、石田三成方の西軍に与することになったため、東軍である家康の嫡男・秀忠率いる軍勢が関ヶ原へ向かう途中に5年前の雪辱とばかりに上田城へ再度攻めかかりました。

昌幸は上田城の死守ならびに徳川勢の関ヶ原への行軍を遅らせることを主眼に置いた戦いを展開し、その術中にはまった秀忠は上田城を攻略できず、さらには予定よりも1週間近く行軍が遅れ、結果関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

しかし関ヶ原の戦いは、西軍の敗北に終わったため、昌幸は戦後処理で死罪を命じらましたが、信幸とその岳父である本多忠勝の助命嘆願により、一命を助けられて次男の幸村とともに九度山への流罪となりました。