【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

有名な中国大返しで秀吉が逆臣の光秀を討った「山崎の戦い」

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京都府乙訓郡
●1582年(天正10年)6月
羽柴秀吉(4万)VS明智光秀(1万5千)
《合戦までの経緯》
1582年(天正10年)6月2日、織田信長は宿舎にしていた本能寺で、また長男の信忠は妙覚寺において、明智光秀に率いられた13,000の軍勢に寝込みを襲われ、ほとんど防戦をすることも出来ないまま、100人あまりの手勢とともに討ち取られました。

羽柴秀吉はその当時、信長から中国方面の攻略の指示を受け、備中高松城を水攻めにしていましたが、3日の夜更けに光秀から小早川隆景に送られた密使を捕らえたことにより、信長の訃報を知ることになりました。

柴田勝家滝川一益ら他の有力な家臣にもこの信長死去の訃報は、次々に伝えられましたが、勝家は越中で、また一益は上野でなど、いずれも敵と交戦中だったため、すぐには信長の弔い合戦のために、戻ってくることはできませんでした。

さらに信長の盟友である徳川家康は信長からの招きにより、堺に滞在していましたが、光秀と戦うだけの兵力がなく、家臣からの進言もあって、命からがら岡崎へと帰りつきました。

また信長の二男・信雄と三男・信孝は他の武将とは異なり、比較的近くにいましたが、特段の動きを示すことができませんでした。そんな中、秀吉のみは主君信長を慕う気持ちと自身の天下取りへの野望を胸に素早く動きだしました。

まずは信長の訃報を隠して、毛利と早々に和睦を申し入れ、それが結ばれるや否や、6日の夕刻には高松を発って、翌7日には姫路へ戻りました。

そこで2日間休みをとって、9日には再び京へ向かって進軍し、1日平均30キロの強行軍で12日には富田に着陣しました。

秀吉にとっての懸念は、京への道中に勢力を有する摂津衆の動向でしたが、茨木城主である中川清秀からの書状に答える形で、「信長親子は光秀の謀反を逃れ、無事に近江の膳所まで下がっておられるので普段なく今後に備えてほしい」としたため、光秀が摂津衆を重視しなかったこともあって、清秀や高山右近ら摂津衆を味方にすることに成功しました。

一方光秀の方は、自身の長年の親友と娘婿である細川藤孝及び忠興親子に書状にて味方になるよう依頼するも拒まれ、また以前から親しい間柄であった大和郡山筒井順慶からの協力を得られず、秀吉軍に対して2倍から3倍の兵力差のまま決戦に臨むことになりました。

守りについて光秀軍に対して、秀吉は12日富田でそれぞれの諸将に部署を伝え、翌日に山崎において決戦のための軍令を発しました。

《合戦の内容》
13日、光秀は勝龍寺城の南南西約600メートルのところにあり、山崎の隘路を進んでくる秀吉軍の進撃を迎え撃つのに適した御坊塚へと本陣を進め戦闘に備えました。

両軍の戦闘は13日の午後4時頃に開始され、光秀軍は右翼の松田太郎左衛門、並河掃部の先方が天王山に陣取る秀吉軍に圧力を掛けましたが、粉塵の働きをする羽柴秀長隊に敗れました。

また秀吉軍の右翼に展開する加藤光泰隊も、光秀方の津田与三郎隊を撃破、さらに中央においても高山重友、堀秀政らの活躍により戦いを有利に進め、光秀方の善戦もむなしくわずか2時間の戦闘で秀吉軍の勝利に終わりました。

《合戦の結果》
戦いに敗れた光秀は、勝竜寺城に入り、さらに暗夜の中、夜半に坂本への脱出を試みましたが、伏見方面に向かう途中、小栗栖にさしかかったところで、落ち武者狩りの農民に襲撃されて命を落としました。

このようにして光秀の天下はわずか11日間で終わりをつげ、逆にこの戦いに勝利した秀吉は天下獲りに乗り出していくことになりました。