【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉が奇策の水攻めで籠城軍を孤立させた「備中高松城攻め」

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岡山市
●1582年(天正10年)4月~6月
羽柴秀吉(2万)VS毛利輝元(5万)※内、清水宗治(6千)
《合戦までの経緯》
清水宗治はもともと備中の三村家親に属していましたが、その家親が宇喜多直家に暗殺され、またその後の明善寺合戦で敗れた三村氏の勢力は急速に衰え、あげく直家と組んだ毛利氏により滅ぼされてしまったため、宗治は三村氏に属していた他の多くの城主とともに毛利氏の傘下に入りました。

1582年(天正10年)4月、織田信長より中国方面の平定を任された羽柴秀吉は、調略の誘いを断った清水宗治を討伐すべく、宇喜多氏を伴い備中に進出し、宗治の居城である高松城の北西にある龍王山に本陣を敷きました。

秀吉はまず、高松城周辺の冠山城、宮路城、加茂城を攻め落とし、5月7日には龍王山から蛙ヶ鼻へ陣を進め、本丸攻めの用意を開始しました。

高松城は当時としては珍しいとされた2メートルの微高地上にある沼城で、周囲を深い沼地に囲まれた難攻不落の堅城、かつ守将の宗治もなかなかの武辺ものとして知られていました。

秀吉軍は2回にわたって攻撃を加えましたが、城兵の抵抗が激しく一旦退きました。それを受けて軍師である黒田官兵衛は力攻めではなく、水攻めという奇策を選択したのです。

《合戦の内容》
近隣の村々を焼き払った秀吉軍は、5月8日から、昼夜兼行で足守川 他の大小の河川に約3キロの長さ及び約7メートルの高さとなる堤防を設置して水を堰き止め、さらに数ヶ所に付け城を築いて厳重に監視しました。

ちょうど時期的に梅雨でもあったので、十日も経つと、高松城の周囲は水で満たされ、城は場外との連絡を閉ざされ、完全に孤立しました。

高松城は宗治とその兄、息子の行宗などの一族と小早川隆景から与えられた兵の総勢約6,000で守っていましたが、水攻めの効果もあり持ちこたえるのが厳しくなってきたため毛利氏へ再度救援を依頼しました。

5月21日、毛利氏は5万の軍勢を率い、吉川元春は岩崎山へ、小早川隆景は日差山へ、毛利輝元の本陣は猿掛城に陣を敷いて、秀吉軍と対決の姿勢を取りました。

全軍を持って来援した毛利軍が5~6町の包囲網を築いたため、秀吉は安土の信長に救援を求める一方で、講和の準備をもひそかに開始しました。

そんな中、6月3日に秀吉のもとへ信長が明智光秀によって弑されたとの訃報がもたらされました。動転していた秀吉は、官兵衛に励まされ、光秀を討伐すべくできるだけ早く京へ戻ると決め、毛利の外交僧である安国寺恵瓊を介して講和を急ぎました。

もともと和睦の条件は宗治の自害と備中・美作・伯耆・備後・出雲の割譲でしたが、毛利が難色を示していたため、早く講和に持ち込みたい秀吉は講和条件を緩和し、恵瓊によってふたたび宗治を説得し、結果宗治は潔く腹を十字にかき切って立派な最期を遂げました。

《合戦の結果》
講和成立後、秀吉は杉原家定を高松城に残し、6日午後2時高松を発して、暴風雨や河川の洪水に遭うなど「中国大返し」と呼ばれた強行軍を経て、翌7日には無事に姫路城へ帰還しました。

6月13日、秀吉は山崎の戦いで光秀を破り、信長の後継者として歩み始めました。また秀吉と対峙していた毛利勢も信長の死を知りましたが、この時にはすでに和睦が成立しており、元春などは追撃を主張しましたが、隆景が誓紙の血痕も乾かぬうちにこれを破るのは武士の恥としてこれを諌め、追撃を行いませんでした。

後年、秀吉はこの毛利の動きを深く感謝し、毛利氏を厚く遇しました。