【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

越後の龍・上杉謙信が織田信長を大いに破る!「手取川の合戦」

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●石川県能美郡美川町
●1577年(天正5年)
織田信長(5万)VS上杉謙信(3万5千)
《合戦までの経緯》
武田信玄の死後、上杉謙信は北陸において縦横に暴れまわり、かつては祖父の代以来の禁であった一向衆とも同盟を結んで、越中能登攻略に乗り出そうとしていました。

その謙信に圧力をかけるため、信長は長篠の合戦が終わった1576年(天正4年)1月、東海や近畿だけでなく、北陸に対しても要所となる琵琶湖岸の安土に大規模な築城工事を開始しました。

そんな中、謙信は約2万の兵を率いて能登へ侵攻し、当主の畠山義春がまだ幼いため、重臣であった長続連が指揮する七尾城を攻め立てました。

北陸において屈指の堅城として知られる七尾城は良く持ちこたえ、翌年の1577年(天正5年)に関東において北条氏政から攻め立てられた上杉方の諸城からの救援要請に応えた謙信は一時春日山城へ戻りました。

その間、畠山氏は反撃に出て、謙信に押さえられていたいくつかの城を奪い返しましたが、再度能登へ侵攻してきた謙信によって、畠山氏は再び危機的状況に陥ってしまいました。
そこで続連は、息子の連龍を以前から親交を重ねていた織田信長のもとへ派遣し救援を求めました。そこで謙信のさらなる勢力拡大を望まない信長は、柴田勝家ら5万の援軍派遣を即決したのです。

しかしながら、この援軍が到着する前、9月15日に、以前より続連が実権を握る事をよしとしない遊佐続光や温井景隆らが謙信に内応し、続連をはじめとする長一族を謀殺し七尾城は落城してしまいました。

七尾城の落城を知らない織田軍は、手取川を越えて付近の村々を焼き払って能登に侵入し、上杉軍と一触即発の状況になっていました。

《合戦の内容》
謙信は織田軍の接近を知ると、すぐさま七尾城を出撃し、手取川付近の松任城に入りました。一方、織田軍は全軍が手取川を渡り終えた所で七尾城落城及び謙信軍の松任城入城を知り、あわてて全軍の撤退を指示しました。

退却を開始した織田軍に対して上杉勢3万5千はすぐさま追撃を開始し、背後の川が増水しており渡河が困難だったこと、さらには織田軍は得意としていた鉄砲が豪雨により火薬が濡れてしまい、全く使い物にならず、手も足も出ない状況ということもあり、上杉軍の騎馬隊による猛攻を受けることになってしまいました。

結果、その場で打ち取られた織田の兵は1000余人、さらに手取川で溺死したものはそれ以上の数に上ったといわれ、織田軍の惨敗に終わりました。

都では「上杉に逢うては織田も名取川手取川)はねる謙信逃げる信長」という狂歌が流行したほどでした。

《合戦の結果》
この勝利によって、謙信は大いに自信を強め、能登から加賀の大半を手中に収めることによって得た大勢力をもって関東平定、そして上洛という夢を抱き春日山城へ戻っていきました。

翌年3月に遠征を開始しようとしましたが、その直前に謙信は病死してしまい、ついに遠征は実現に至りませんでした。