【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

鉄砲三千挺・三段撃ちで武田騎馬隊を撃破「長篠・設楽原の戦い」

f:id:hitokoburakuda2012:20151001112247j:plain

●愛知県南設楽郡鳳来町
●1575年(天正3年)
●織田・徳川連合軍(3万8千)VS武田勝頼(1万7千)
《合戦までの経緯》
武田信玄による西上作戦は、1573年(天正元年)4月12日に自身の死によって終わりを告げました。

当時の織田信長は近江において浅井・朝倉連合軍と対峙しており、さらには伊勢長島の一向門徒や将軍・足利義昭との関係悪化など四方に敵を抱えていたので、信玄死すというニュースは信長にとってまさに朗報でした。

早速、信玄と手を組んでいた義昭を若狭へ追放、翌月には浅井氏ならびに朝倉氏を滅ぼすことに成功しました。

ただ徳川家康は信玄死去の情報に対して半信半疑であり、1573年5月に、この情報が本当かどうかを確認するため駿河へ攻め入り、そして東三河への侵入も試みました。

さらに勝頼が喪に服して反撃に出てこない中で、9月には武田の精鋭部隊が守る長篠城を落とすことに成功し、武田家から寝返った奥平信昌を長篠城に配しました。

しかし1574年(天正2年)になると、勝頼は3万の大軍で東美濃に出陣し、1月末には岩村城を、2月7日には明智城を落とし、5月初めには遠江に向かい高天神城を開城させました。

そして勝頼は1575年(天正3年)4月下旬に、15,000の兵を率いて三河へ侵攻し、5月には長篠城を包囲しました。

《合戦の内容》
長篠城から救援の依頼を受けた家康は、信長に援軍を依頼しました。家康の依頼にこたえるため信長は5月13日、30,000の兵を率いて長篠に向かい、岡崎で徳川勢8,000と合流し、5月18日には長篠城手前の設楽原に着陣し、武田勢に対して馬防柵を設けました。

これを受けて勝頼も長篠城の包囲を解いて、信長・家康連合軍に迎撃するために15,000の兵で対陣しました。

武田氏の用いる甲州流軍法による戦い方は、長槍隊を先頭に敵方へ侵入させ、その後に騎馬隊が一団となって突入するというものでした。

信長は普通に戦っては勝ち目がないと考え、陣地の前20余町に二重、三重の空豪を掘り、土手を築いて、さらには20~30間おきに木戸口を設けた馬防柵を、三重に構築することにより、襲い掛かってくる武田勢を鉄砲にて打ち払うという作戦を立て、3,000丁の鉄砲隊を編成しました。

さらに通常は鉄砲を打つ際、1発目と2発目を打つまでに少し時間が掛かるのですが、信長は3,000丁の鉄砲隊を三段に配置し、一列目が鉄砲を打つと同時に後方へ下がり、二列目が続いて鉄砲を放つといったように切れ目なく攻撃ができる工夫を凝らしました。

武田軍では決戦を前に開いた軍議の場で、信玄以来の宿老たちが全面対決の愚を説いて反対しました。しかしながら勝頼はその反対を押し切って決戦に踏み切り、鶴翼の陣を敷いて信長・家康連合軍に相対しました。

21日の早朝、大久保忠世山県昌景との間で決戦は開始され、続いて武田軍の中央に配された約1,000の騎馬隊が信長の本陣に向かって殺到しました。

ところが、織田軍の設置した馬防柵に阻まれ、普段の戦法をとることが出来ず、三段に編成された鉄砲隊の餌食となってしまいました。

信玄に鍛え上げられた、武田の騎馬隊はその力を発揮することなく次々と討ち取られ、さらには連合軍の総攻撃により武田軍は譜代の内藤・山県・馬場を始めとする1万以上の死傷者を出し、勝頼はわずかの従者とともに甲府へ帰城しました。


《合戦の結果》
信長はこの長篠・設楽原における勝利や石山本願寺との和睦によって反信長勢力を屈服させたことによりさらに天下人として台頭、また戦闘の形態も大きく様変わりし、鉄砲の注目度が高まりました。