読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

家康の生涯において一番の負け戦「三方ケ原の戦い」

f:id:hitokoburakuda2012:20151001112220j:plain

●静岡県浜松市
●1572年(元亀3年)
武田信玄(2千5千)VS織田信長徳川家康連合軍(1万)
《合戦までの経緯》
織田信長は甲斐の武田信玄ならびに越後の上杉謙信を極度に恐れ、彼らとの戦いを避けるために、信玄の四男・勝頼に娘を嫁がせ、謙信には都の様子を描いた洛中洛外屏風をおくるなど、常に低姿勢であり続けていました。

謙信の目的はあくまでも関東を制覇することでしたが、信玄のそれは京都を手中に収めることだったため、信長との同盟は上洛の用意が整うまでの仮のものに過ぎませんでした。

信玄が上洛に伴い、信長と対決しようとするためには、「戦力の充実」、「同盟関係の強化」という二つの条件が必要でした。

「戦力の充実」という点については、1568年から開始した、駿河侵攻により、駿河一国を領国に加えることで戦力が格段に充実、また「同盟関係の強化」については、駿河侵攻で一時は解消された北条との同盟関係が、1571年(元亀2年)には修復され、北条が謙信を牽制する役目を果たすことにより後顧の憂いが無くなり、上洛の態勢が整いました。

また畿内においても足利義昭や浅井・朝倉、また石山本願寺などによる信長の包囲網が形成されつつあり、信長と戦うための機は大いに熟してきました。

そんな中で三河遠江を領国とする徳川家康は、信長と同盟関係を結んでいるものの、信玄の領地と接しているため、信玄と信長の同盟が破れた場合、最初に攻撃を受けるという難しい立場になりました。

そして1572年(元亀3年)10月3日、ついに信玄は25,000の兵を率いて甲斐を発ち、遠江へ乱入、10月下旬には徳川方の二俣城に攻めかかり、12月19日には城を落とすことに成功しました。

信玄はそのまま、家康のいる浜松城に向かってくるかに見えましたが、突如進路を変更し浜松城を無視するような動きに出ました。

一方家康は、信長の援軍3,000を加えても10,000足らずの兵しかいないため、籠城戦に備えていましたが、家康は敵に領内を素通りされるのをただ見ているだけでは武門の名折れと、信玄との戦いに踏み切りました。

《合戦の内容》
浜松城から出撃した家康は、西へ向かう武田勢を追いかけ、武田勢が祝田の坂を下り始めるころを見計らい襲い掛かるつもりでしたが、百戦錬磨の信玄は祝田の坂の手前にある三方ヶ原にて家康を迎え撃つため魚鱗の陣を布いて待ち構えました。

徳川軍は鶴翼の陣で襲い掛かり、序盤は徳川勢が戦いを優位に進めていたものの、武田軍に対して兵力・戦術面ともに劣る徳川軍は徐々に押し返され、わずか2時間の戦いで武田軍の死傷者が200に対し、徳川軍は死傷者2,000という大きな被害を受けました。

家康は敗走の途中に、討ち死に寸前まで追い詰められましたが、わずかに残った共回りとともになんとか浜松城へ逃げ帰りました。なお、家康は敗走の際、恐怖のあまり大きいほうを失禁してしまったといわれています。

家康は浜松城へ逃げかえったあと、退却してくる兵を一人でも多く収容するため、場内に篝火を焚き、門は大きく開け放しておきました。

徳川軍を追撃して浜松城に迫った武田軍は、この浜松城の様子を見て何か計略があるのではないかと深読みし、城の攻略を断念したそうです。

《合戦の結果》
三方ヶ原の合戦に勝利した信玄は三河へ向けて進軍、そして野田城を攻略しましたが、信玄の病の悪化により、進路を北に変えて後退し、そのまま甲斐に向けて帰還する途中、ついに信濃の国駒場においてついに信玄は没しました。

その後四男の勝頼があとを継ぐものの、信玄の死は武田氏のその後に大きな暗い影を落としました。