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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

信長最大の敵である本願寺との十年にわたる戦い「石山合戦」

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大阪市
●1570年(元亀元年)~5月19日(天正8年)
織田信長(10万)VS石山本願寺(不詳)
《合戦までの経緯》
1568年(永禄11年)足利義昭を奉じて上洛した信長は、各地に割拠する大名を次々と打ち滅ぼし、天下布武に向け突き進んでいました。

しかしまだこの時期は地盤が安定していたわけでなく、1570年(元亀元年)に朝倉・浅井と交戦した際にも近江の一向一揆は側面からの浅井への援助や、三好党へも支援も行っていました。

ただ信長が三好党の討伐を決行すると、信長の攻撃の矛先が本願寺に向けられるようになり、それを受けた本願寺法主である顕如は1570年(元亀元年)9月6日、信長に対抗するべく全国の門徒に激を飛ばしました。

《合戦の内容》
顕如による激に応え、9月12日に本願寺軍は三好三人衆への攻略として摂津福島に陣を敷く織田軍を突如攻撃し、さらにその勢いで石山を出て14日には淀川堤において信長軍と矛を合わせました。

しかしこれは織田軍の優勢に終わり、石山に戻った本願寺軍は籠城を開始しました。この戦いと同時期の9月11日伊勢長島の願証寺においても門徒が蜂起し、信長の弟・信興が守る尾張小木江城に押し寄せて信興を自害に追い込みました。

苦境に陥った信長の申し出により一旦停戦となったものの、本願寺側では単独で信長に立ち向かうのではなく、浅井・朝倉だけでなく、毛利元就や相婿という関係から武田信玄とも連絡を密にとり、信長包囲網を築くべく動き始めました。

逆に信長の方でも本願寺に対抗し、朝廷への働きかけや、上杉謙信との親密度を上げるなどの動きをとり、天正元年頃までは石山本願寺と信長は互いに牽制しあいつつも戦火を交えることはありませんでした。

しかしながら1573年(天正元年)4月、武田信玄の死により、近畿・伊勢方面で優位に立った信長は9月に長島攻略に向けて動き出し、10月長島周辺の門徒を屠り、翌1574年(天正2年)には信忠・信包により、抵抗を続ける門徒を皆殺しにしたうえ、中江城と長島城に籠る男女2万の門徒を焼き殺しました。

さらに朝倉氏滅亡後、信長に越前・加賀を平定されるという痛手を受けた顕如は、1975年(天正3年)12月に一時的な和議を結び、紀伊の雑賀党や毛利を頼って、その後の新たな展開に備えました。

1576年(天正4年)4月、伊勢、加賀などの拠点が落され、信長による本願寺の包囲網は徐々に狭まり、籠城している門徒の状況もだんだんと苦しくなっていきました。

さらに信長の中国計略によって毛利との連絡も遮断され、頼みの綱である雑賀党も1577年(天正5年)3月に信長の軍門に下りました。

信長に対抗するうえで、最後の切り札となるのは上杉謙信で、1578年(天正6年)3月期日に西上が行われる予定となっていたため、それまでは何とかと信長の圧迫をしのいでいましたが、その謙信も西上の前に他界してしまいました。

このことによりこれ以上の抵抗が難しいことを悟った顕如は信長への降伏を決め、1580年(天正8年)1月より和平交渉が行われ、8月に石山を退去しました。

《合戦の結果》
顕如が退去した後、嫡子である教如が講和に反して石山を占拠、そして本願寺顕如教如の2派に分かれてしまいました。

1582年(天正10年)6月の本能寺の変による信長の死後、顕如教如は朝廷の仲介により和解しましたが、顕如教如を廃嫡し弟の准如を嫡子に定めました。

しかしその後も教如は大坂の大谷本願寺を本拠とし、各地の門徒への布教活動を続け、1602年(慶長7年)教如徳川家康による土地の寄進を受けて、本願寺は東西に分かれました。