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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

総勢四万の兵が激突し姉川を血に染めた「姉川の戦い」

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滋賀県浅井郡浅井町
●1570年(元亀元年)6月
織田信長(2万3千)VS朝倉・浅井連合軍(1万8千)
《合戦までの経緯》
織田信長尾張ならびに美濃を手中に収め、続いて伊勢に触手を伸ばしていた1568年(永禄11年)の春、京都において三好三人衆松永久秀は13代将軍・足利義輝を暗殺し、阿波にいた足利義栄を担ぎだして次の将軍に据えました。

一方義輝の弟の命を狙っており、奈良・興福寺の一乗院に身を寄せていた次弟の覚慶(のちの義昭)は義輝の家臣であった細川藤孝に助け出され、還俗して越前の朝倉氏の元に落ち延びました。

朝倉氏の元で時期の到来を待っていたものの、なかなか腰を上げない朝倉氏に業を煮やした義昭は、信長の噂を聞くと美濃の立政寺で会見、その後信長は義昭を奉じて1568年(永禄11年)9月29日に6万の兵を率い上洛を果たしました。

信長のおかげで将軍職に就くことが出来た義昭でしたが、自身の思い通りにならない信長との関係は日増しに悪化し、将軍の名において信長の追討を促す書状を各地の大名に発しました。

信長としても、義昭が一番頼りにするのは越前の朝倉氏と考え、挑発の意味で1569年(永禄12年)12月に朝倉氏に上洛を二度促しましたが、当然のごとく拒否され、このことを機に北陸攻略の兵を出すことを決意しました。

1570年(元亀元年)4月に信長が越前へ兵を進めると、朝倉氏とは以前から同盟関係にあった浅井長政は、信長の妹・お市を嫁に迎え親戚ではありながらも、信長から離反し、織田軍の背後を襲うべく挙兵しました。

朝倉軍・浅井郡による挟撃の危機に陥った信長は「金ケ崎の退き口」で有名な撤退をこの時に行ったのです。

浅井長政の裏切りに烈火のごとく怒った信長は、報復を図るべく6月19日に江北に殺到し、24日には横山城に入り、援軍である徳川家康の軍と合流し、23,000の兵で龍ヶ鼻に陣を敷き、姉川の河原を挟んで浅井・朝倉18,000の軍と対峙しました。

《合戦の内容》
6月28日、朝もやが残る午前5時過ぎ、徳川軍の先陣である酒井忠次の兵が朝倉軍を奇襲、両軍は激しくぶつかり合いました。

徳川の軍に押され気味であった朝倉軍の中で真柄直隆が徳川勢の中で大いに暴れまわり、一時は押し返すかに見えましたが、その真柄直隆も討ち取られ、そののち朝倉勢の大半が姉川の戦場から敗走してしまいました。

一方、浅井勢は12段構えで備える織田軍に対して長政自ら槍をふるって襲い掛かり、一時は信長の本陣にまで迫る勢いでしたが、1万の朝倉軍がその半数に満たない徳川勢に敗れたという情報が伝わると戦意を喪失し、形勢は逆転してしまいました。

戦いは午後2時ごろには決着がつき、朝倉勢は越前へ、浅井勢は小谷城へ撤退しました。


《合戦の結果》
姉川の合戦では浅井軍の被害が大きく、長政の重臣である遠藤直経や実弟の浅井政之をはじめ多くの武将が戦死しました。

また朝倉軍においても同様で、特に戦場からの撤退戦で多くの戦死者を出ました。しかしながらこの戦いでは敗れたものの、比叡山石山本願寺と手を組み、湖西の志賀郡などで激しい攻防戦が繰り返すなど浅井氏・朝倉氏にはまだ余力は残っていました。

信長は業を煮やし、浅井・朝倉を援助する比叡山の焼き討ちを行い、さらに諜略によって浅井家の磯野員昌を離間させるといった内部分裂を謀り、浅井・朝倉の弱体化させることに成功しました。

結果、浅井・朝倉は戦略を大局的なものに方向転換させ、甲斐の武田信玄石山本願寺らと信長包囲網を形成していくことになりました。