【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

武田信玄が待ち受ける北条軍を撃破!「三増峠の戦い」

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●神奈川県津久井郡津久井町・愛甲郡愛川町
●1569年(永禄12年)10月
北条氏政(2万)VS武田信玄(2万)
《合戦までの経緯》
相模の北条氏康は甲斐の武田氏及び駿河の今川氏との間で甲相駿三国同盟を締結し、越後の上杉謙信と戦っていましたが、1560年(永禄3年)に今川義元桶狭間の合戦で織田信長に討たれて以来、その三国の結束はだんだんと弱まっていきました。

1568年(永禄11年)12月に武田信玄駿河に侵攻したことによって、三国同盟は事実上消滅し、今川氏に援軍を送った北条氏は以後武田氏と軍事的な衝突を繰り返すことになりました。

北条氏武田氏と戦うにあたり、戦いを有利に進めるため、それまでは関東の覇権を争っていた上杉謙信に働きかけ、結果1569年(永禄12年)閏5月には越相同盟が結ばれました。

1569年(永禄12)8月24日武田信玄北条氏小田原城を目指して約2万の兵を率いて甲府を発ち、北条方の鉢形城や瀧山城を攻めたのち、10月1日から小田原城の包囲を始めました。

小田原城は、以前に上杉謙信が10万以上の兵力で力攻めしても落とせなかったほどの堅城であったため、信玄は無理な城攻めをせず小田原城を囲んだまま3度にわたって挑発を繰り返したものの、北条勢は小田原城を出ませんでした。

そのため包囲を開始して4日後の10月5日、武田軍は城の攻略を諦め、城下に火を放って軍勢を引き上げました。

しかしながら北条氏としては武田勢に領内を蹂躙されたまま何もせずに甲斐へ返したとすれば、北条氏の権威は地に落ちてしまうため、北条氏は武田軍の甲斐への帰り道の要衝になる三増峠にて、武田信玄から攻撃された鉢形城主・北条氏邦と瀧山城主・北条氏照の手勢が主力となって、受けた借りを返すべく手ぐすね引いて武田軍を迎え撃ちました。

《合戦の内容》
北条氏邦と氏照は三増峠に陣を敷き、2万の兵を率いてく北条氏政とで武田軍を挟撃し、一気に殲滅する作戦を考えていた。

その氏邦・氏照の部隊は氏政の軍を待たずに、先手を打って奇襲攻撃を仕掛けようとする動きを察した信玄は小幡重貞に命じて北条方の拠点である津久井城進出し、城兵と三増峠の北条勢との連携を遮断しました。

続いて馬場信春には三増峠に布陣する北条勢を正面から攻撃させ、さらに山県昌景には三増峠の西南約1kmのところにある志田峠に兵を進め北条勢を側面から攻撃するように命じました。

10月6日の早朝に戦いは開始され、合戦当初は峠を押さえていた北条勢が戦いを優位に進めていましたが、山県昌景率いる武田の別働隊による側面からの攻撃が開始されると、戦況は一気に逆転し、背後の津久井城守備隊が、武田軍別働隊のために救援に向かえなかったことも有り、武田勢が北条勢を蹴散らして、三増峠を突破し甲斐に戻ることが出来ました。

さらにまた合戦の終盤、小田原から追撃してきた氏政率いる北条の本隊2万が荻野(現・厚木市)まで迫っていましたが、そこで自軍の敗戦を聞き、進軍を停止したため予定していた挟撃を行うことが出来なかった。

万が一氏政の本体が予定通り到着していたら、武田軍は挟撃され、合戦の趨勢が変わった可能性は大いにあったといわれています。

《合戦の結果》
信玄としては小田原城の攻略という当初の目的は達成できなかったものの、軍事的に北条氏を威圧することにより、北条氏との同盟を復活し、織田信長打倒を目的とした上洛のため、東方からの脅威を排除することに成功しました。