【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

信玄と謙信が五度にわたって戦いを繰り広げた「川中島の戦い」

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長野市

●1561年
武田信玄(2万)VS上杉謙信(1万3千)
《合戦までの経緯》
1552年(天文21年)、関東管領であった上杉憲政北条氏康に敗れたため越後の上杉景虎を頼り、景虎に上杉の名と関東管領職を引き継ぐことを依頼しました。

景虎は二度目の上洛で将軍・足利義輝より関東管領就任の許可を得て、大義名分を持って関東へ兵を進め、10万の兵で北条氏康小田原城を包囲するものの、その堅い守りに阻まれ攻めあぐねている中、北条氏康は同盟を結んでいる武田信玄に支援を依頼し、信玄は景虎の背後を脅かすべく北信濃に進出、川中島海津城を築いて景虎を牽制しました。景虎は一部の関東諸将の離反も有り、小田原城の囲みを解いて越後へ帰りました。

関東管領として関東鎮圧を行うために、武田信玄によって攻められて越後に落ち延びている元深志城主・小笠原長時や元葛尾城・村上義清らの懇願を受ける形で後顧の憂いを無くすべく信濃に打って出ました。

1553年(天文22年)8月、千曲川犀川の合流点にある川中島へ陣を敷いた上杉軍は、武田勢と対峙したものの、最初の戦いは小競り合いで終わりました。

1555年(弘治元年)7月19日には犀川を挟んで両軍が激突し、景虎としては一気に雌雄を決めたかったが、信玄が持久戦をとり、対陣が数ケ月に及ぶに至ったため、駿河今川義元の調停で和睦を結んで兵を撤退させています。

さらに1557年(弘治3年)には第三次合戦もありましたが、これも小競り合い程度で終始しました。

次に計五度の川中島の合戦の中で、最も有名な第四次川中島合戦となります。海津城を拠点に信濃の支配を進めている武田勢を駆逐、さらには援軍として現われるであろう武田本軍との決戦を目的として1561年(永禄4年)8月16日、景虎は13,000の兵とともに妻女山に進出しました。

一方、信玄は上杉勢が進軍してきたとの報に接すると、約20,000の兵を率いて甲府を発ち、24日には茶臼山に、そして29日には海津城へ移動しました。

《合戦の内容》
1561年(永禄4年)9月9日夜半、海津城から武田の別働隊12,000が妻女山に向い、さらに信玄率いる本隊8,000は八幡原に鶴翼の陣を敷きました。

しかしながら景虎は海津城での炊煙が普段より多いのを見て武田軍の動き(きつつき戦法)を察知し、兵に対して一切の物音を立てさせず、夜陰に乗じて「鞭声粛々」と千曲川を渡り八幡原に布陣しました。

明けて10日の午前8時頃、川中島を包む朝霧が晴れると現れた上杉軍をみて愕然とする武田軍に向かって上杉軍は突入し、車懸りの陣で武田軍に襲いかかりました。武田軍は鶴翼の陣で応戦するものの、劣勢に陥り信玄の弟の信繁や山本勘助など有力な武将が討死する展開となりました。

しかしながら数の上で勝る武田勢は、妻女山に向かっていた別働隊が戦場に到着すると、形勢が逆転し、上杉勢を圧倒し始めました。

戦況が不利になると、景虎は単騎で敵陣に突入を図り、本陣にいた信玄に切る掛かるものの、本陣を守る兵に邪魔され、取り逃がしてしまいました。

その後決着がつかず日没とともに上杉勢が戦場を離脱したため、合戦は終わりました。

《合戦の結果》
1564年(永禄7年)8月、景虎はまたしても善光寺に出陣するが、信玄が決戦を避けたため越後へ引き返すことになり、この第五次合戦以降は上杉が川中島へ進出することはありませんでした。

その後、1560年(永禄3年)に桶狭間の戦い今川義元尾張織田信長に討たれ、さらに、武田家中における義信事件をきっかけに武田と今川の関係は悪化し、武田氏駿河今川領国への侵攻を開始しました。