【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

戦国時代を通じての代表的な奇襲戦「桶狭間の戦い」

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●愛知県名古屋市

●1560(永禄3)年5月
織田信長(2千)VS今川義元(2万5千)
《合戦までの経緯》
今川氏親の跡目を継いだ長男の氏輝が死去した後、氏親の三男であった義元が1536年に18歳で家督を継ぎました。

義元は三河松平広忠を攻めて支配下におさめると、続けて尾張に狙いを定め、1548年に織田信秀と小豆坂にて激突しました。

その翌年に松平広忠ならびに織田信秀が相次いで没すると、上洛の野望を持っていた義元はすかさず1552年甲斐の武田氏、さらに相模の北条氏と婚姻政策を進め、駿甲相三国同盟を結ぶことに成功し、後顧の憂いを無くして上洛へと乗り出しました。

1560年5月12日、今川義元は自ら25,000の大軍を率いて駿府を出発し、早くも17日には尾張知立に到着し、翌18日には沓掛城に本陣を敷きました。

19日には同行していた松平元康が兵2,500で丸根砦を攻め、併せて朝比奈泰能も兵2,000をもって鷲津砦にも攻め寄せました。

一方の織田信長は18日に清州城に入り、逐一報告される状況を聞きながら、重臣たちと清洲城に籠城または出撃かで軍議が紛糾していました。

翌19日早朝、出陣の命令を出し、湯漬けをかき込んだ信長は、常に愛舞していた幸若舞「敦盛」を三度舞った後、出陣の身支度を整えて、午前4時頃に小姓5騎のみを伴い疾風のように駆け出し、8時頃には熱田神宮に到着し軍勢を集結させて戦勝祈願を行いました。

その後、約2,000まで揃った兵とともに善照寺砦に入った矢先、丸根砦並びに鷲津砦が陥落し、佐久間盛重や織田信平が討ち死にしたことを知った信長は、彼らの死を悼むとともに全軍の指揮を高めました。

反対に緒戦の勝利に浮かれていた義元は、大高砦に松平元康を入れ、自身は沓掛城を出発し、田楽狭間で小休止をとっていました。

この動きを梁田政綱から報告を受けた信長は、田楽狭間が縦長で狭い窪地のため軍列も縦に伸びることにより、少人数で本陣を奇襲すれば勝てると勝算を立てたのでした。

《合戦の内容》
信長は田楽狭間の背後にある太子ヶ峰に登って義元軍の様子を探ってみると、義元は信長の動きを全く把握せず、丸根、鷲津両砦の陥落などにより気を良くし兵をとどめたまま酒宴を開いていました。

その後14時頃に、空は暗雲に包まれ、大粒の雨が降り出しました。その間隙をぬって信長軍は今川軍に対して奇襲攻撃を掛けたのです。

今川軍は総勢約20,000の兵を揃えていましたが、義元を守るために配された兵は約5,000程度で、双方激しい切り合いの末義元を直接囲む兵の数が数十名になったところで、信長の近習・服部小平太が義元に槍で襲い掛かり、さらには毛利新介が悶絶している義元に二の太刀で切り付けました。

大将である義元の首を取られた今川運は、なすすべもなく東に向かって敗走し、戦いは信長軍の勝利に終わりました。

《合戦の結果》
この戦いにより西三河から尾張までの地域にある今川氏の勢力が一掃され、さらに本体と別の軍事作戦で先鋒を務めていた岡崎の松平元康は、この戦いによる難を逃れたのを幸いとし、今川氏から独立を図って松平氏の旧領回復を図りました。

またこの戦いで甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主・義元が討ち取られたことにより、北条家武田家と敵対する勢力である越後の長尾景虎の勢いが増し、関東に所領をもつ多数の諸侯が謙信に付き、このことが小田原城の戦いならびに第四次川中島の戦いの遠因となりました。

さらには甲斐の武田氏と今川氏の関係悪化により同盟が手切れとなって武田氏による駿河侵攻が始まり、今川氏は衰退していきました。