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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

毛利元就が謀略を駆使し勝ちを収めた会心の一戦!「厳島の戦い」

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広島県佐伯郡宮島町
●1555年10月1日
毛利元就(4千)VS陶晴賢(2万)
《合戦までの経緯》
天文20年(1551年)、陶晴賢は大寧寺の変において大内義隆を討つことにより大内氏の実権を掌握しました。

この動きに乗じて、出雲の尼子氏が備前に触手を伸ばし、それに呼応して尼子氏に走った江田氏を毛利元就が討ち取りましたが、江田氏の居城である旗返城の処理を巡って、大内氏の下で協力し合ってきた陶晴賢毛利元就の間に亀裂が生じることになりました。

そんな中、大内義隆の姉を正妻に持つ石見国津和野三本松城主・吉見正頼が陶氏に反旗を翻しました。両陣営から援軍の要請を受けた毛利氏は逡巡したうえ、吉見氏に味方することを決め、1554年(天文23年)5月に安芸領内の大内方の城ならびに厳島を占拠しました。

そのことを知った陶氏は吉見氏と和議を結び、折敷畑山に陣をしき、9月15日に毛利軍と激突しましたが、綿密な作戦を立て攻めかかった毛利氏が陶氏に勝利しました。

折敷畑山の合戦で大敗した陶氏は山口に戻って体制を建て直している間、毛利氏は陶晴賢の片腕である江良房栄を謀略により晴賢自身の手で殺害させ、さらに陶方の家臣を多く離反させることに成功しました。

ただ、まだまだ兵力数で陶氏に劣る毛利氏は、背後に尼子氏の脅威を抱えることもあり、陶氏との長期戦を避け、大軍で戦うのに不利な厳島の宮尾城に城を築き、囮として約500の兵を入れ、短期決戦を挑むべく誘いを仕掛けました。

《合戦の内容》
1555年(弘治元年)9月20日、様々な謀略に乗せられた陶晴賢は約25,000人の兵を率い、陶方から毛利方が約500人で籠る宮尾城を攻めるべく厳島に上陸した陶晴賢は、宮尾城の南側、厳島神社の東側である塔の岡に陣を置き、攻撃を開始しました。

その一方で、9月27日に郡山城を出た毛利元就は、厳島の対岸に位置する草津城に陣を敷いて吉川元春らの到着を待ち、さらに援軍を依頼していた伊予の村上武吉村上水軍200~300隻が揃ったのち、30日に厳島へ向かって出発しました。

その際、にわかに上空が暗くなり、風も激しく、海が荒れてきたため、敵に見つかることなく上陸を果たせました。上陸後、毛利元就本軍は陶軍の背後の山の中腹へ、また小早川隆景が率いる1500の兵は、陶本軍のいる塔の岡の下の海岸から接近し、暗闇に紛れて塔の岡のふもとに陣を敷きました。

翌10月1日の東の空が白みはじめたころ、元就本軍がいる山の上の陣に太鼓が鳴り響き、これ合図に陶軍の背後の元就の軍とふもとにいた隆景の軍、さらには城内からと一斉に攻撃を開始しました。

完全に油断しきっていた陶軍は、狭い島内で大軍の優位を発揮できないため混乱に陥り、総崩れとなってしまいました。陶軍は我先にと船に乗ろうとしたため、船が傾いて転覆するなどにより、多数の溺死者がでることになりました。

総大将である晴賢も島を脱出して落ち延びようとしましたが、海上は伊予水軍に制圧され、また脱出の為の舟も見つけられず、小早川軍の追撃を必死で防いでいた三浦房清が戦死するに及んで、自身も自刃して果てました。

この戦いにおいて陶軍の戦死者は4700余人にのぼったといわれています。

《合戦の結果》
この戦いで敗れた陶氏は間もなく滅び、陶氏の傀儡であった大内氏の勢力は急速に衰え1557年に元就に追い詰められた大内義長が自害するに至り、ここに大名としての大内氏も滅亡しました。

その後、毛利氏は安芸・備後だけでなく、周防・長門も手中に収め、山陰地方制覇の事業が大きく進んでいくことになりました。