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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

北条氏康八千で八万の敵を撃破!「河越合戦」

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●埼玉県川越市
●1546年5月19日
北条氏康(8千)VS反北条連合軍(8万)
《合戦までの経緯》

室町時代の後期より関東の覇権を巡って古川公方の足利茶々丸関東管領が対立し、さらには関東管領の内部でも本家の山内上杉家と庶家の扇谷上杉家が対立するという混迷の様相を呈していました。

そんな中、扇谷上杉家の家領であった駿河の興国寺城主の北条早雲は、扇谷上杉方の大森氏や三浦氏を下し、その勢いで堀越公方足利茶々丸を攻め滅ぼしたのち、近隣の諸豪族を従え伊豆一国を手に入れました。

その後、早雲の子であり、早雲にひけをとらない名将の北条氏綱は、古河公方や関東管領双方の内紛がつづくなか、武蔵そして江戸城へ進出し、さらには天文6年扇谷上杉家の当主・上杉朝定の居城である河越城を落として扇谷上杉家を滅亡の淵まで追いつめました。

しかしながらその氏綱も没し、その跡を三代目の北条氏康が継いだ早々、大きな危機を迎えることになりました。天文14年(1545年)9月扇谷上杉家の上杉朝定が山内上杉家上杉憲政の支援を受け、河越城の奪還に動き出したのです。

《合戦の内容》
天文14年9月26日(1545年10月31日)、関東管領である上杉朝定は上杉憲政及び協力の要請を受けた古河公方の足利晴氏ほか関東の大名らの連合軍約80,000(この数字は軍記「北条記」より抜粋)の大軍によって、河越城を包囲しました。

対する河越城は氏康の義弟である北条綱成が約3,000の兵で守っており、その河越城を救援するため、今川との戦いを収めた氏康が約8,000の兵を率いて向かいましたが、上杉・足利軍が包囲する河越城に近づくことが出来ませんでした。

籠城した綱成は食糧を十分に蓄えていたこともあり、数ヵ月間耐え続けましたが、その間、氏康は上杉軍及び足利軍に対して偽りの降伏を申し出て、和睦を願いました。

しかしながら上杉軍は受け入れず、逆に北条軍を攻撃してきましたが、氏康は戦うことなく兵を府中まで引きました。上杉軍はこの氏康の姿勢をみて北条軍の戦意は低いと判断、さらに自軍の兵数も多いということから上杉軍の陣中には楽観的な雰囲気が漂いました。

天文15年4月20日(1546年5月19日)の夜、氏康は上杉軍への急襲を試み、自軍8,000を四隊に分け、そのうち一隊を陣地に残した氏康は、残り三隊を率い、上杉連合軍に突入しました。

油断しきっていた上杉軍は大混乱に陥り、悲願の河越城奪還を狙っていた扇谷上杉家の上杉朝定は討死、また山内上杉家上杉憲政は命からがら戦場を離脱し上州平井に敗走しました。

この機に乗じて城内からは綱成が打って出て、足利晴氏の陣に襲い掛かり、既に浮き足立っていた足利軍は散々に打ち負かされ古河へ逃げ延びました。この戦いでの連合軍側の死傷者は13,000~16,000人だったといわれています。

《合戦の結果》
この河越合戦によって、当主を失った扇谷上杉家は滅亡し、そして平井城へ敗走した関東管領山内上杉家も急速に勢力を失うことになりました。

その後、上杉憲政信濃村上義清らと上信同盟を結んで、北条氏に対抗しようと試みましたが、信濃へ食指を伸ばしていた武田氏との小田井原の戦いに敗れ、居城である平井城を追われることになり、越後の長尾景虎を頼って落ちていきました。

さらに同じく敗走した古河公方の足利晴氏についても、この合戦の直後に御所を包囲されて降伏し、家督を長男ではなく、北条氏出身の母をもつ次男の義氏に譲り、自身は幽閉されてしまいました。

一方、北条家はこの戦いによって関東南西部に勢力を大きく広げ、戦国大名としての地盤を固めていったのです。