【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉にたよられるも毛利両川の立場を守った「小早川隆景」

●天文2年(1533年)~慶長2年(1597年)6月12日●筑前37万石領主、豊臣政権5大老のひとり 小早川隆景は天文2年(1533年)、毛利元就の三男として生まれ、天文14年(1544年)に当主である小早川興景が死去した竹原小早川家に養子に入り、竹原小早川家の当主と…

死ぬまで天下人・秀吉を嫌った毛利両川の猛将「吉川元春」

●享禄3年(1530年)~天正14年(1586年)11月15日●毛利の両川、日野山城主 吉川元春は享禄3年(1530年)、安芸の毛利元就の次男として生まれ、天文9年(1540年)には出雲の尼子晴久が吉田郡山城へ侵攻してきた際には、父の反対を押し切って出陣し、元服前の…

毛利氏に忠誠をつらぬき高松城に散った備中侍「清水宗治」

●天文6年(1537年)~天正10年(1582年6月23日)6月4日●備中高松城主 清水宗治は天文6年(1537年)、備中の大名三村氏の家臣である清水宗則の次男として生まれました。 宗治の主君である三村氏は、中国地方に大きな勢力を保有する毛利氏と同盟を結んで、父の…

賤ヶ岳の戦いで七本槍に数えられた戦国の猛将「福島正則」

●永禄4年(1561年)~寛永元年(1624)7月13日●安芸広島城主 福島正則は永禄4年(1561年)、尾張で桶屋を営んでいた福島正信の長男として生まれ、母親が豊臣秀吉の母親の姉妹だったことから幼いころより小姓として秀吉に仕えていました。 秀吉が中国地方の攻…

尼子家の再興に命を懸けて毛利氏と戦い続けた「山中鹿助」

●天文14年(1545年)8月15日~天正6年(1578年)7月17日●出雲・尼子氏家臣、尼子十勇士 山中鹿介は天文14年(1545年)8月15日、出雲・富田庄に生まれたとされています。もともと山中家は尼子氏の家老でしたが、父・満幸が早世していたため、母一人の手で育て…

信長と秀吉の未来を予言した毛利家の外交僧「安国寺恵瓊」

●天文8年(1539年)~慶長5年( 1600年)10月1日●毛利家の外交僧であり6万石の大名 安国寺恵瓊は、天文8年(1539年)甲斐の武田氏と同族である安芸の守護・武田氏の一族・武田信重の子として生まれました。 しかし天文10年(1541年)、毛利氏によって武田氏…

謀略を駆使し中国地方の覇者にまで登り詰めた「毛利元就」

●明応6年(1497年)3月14日~元亀2年(1571年)6月14日●中国8ヶ国太守、長州藩始祖 毛利元就は明応6年(1497年)3月14日、安芸の毛利弘元の次男として生まれましたが、永正13年(1516年)に長兄・興元が急死したため、家督は興元の嫡男・幸松丸が継ぎました…

文化に傾き過ぎた西国きっての大大名の御曹司「大内義隆」

●永正4年(1507年)11月15日~天文20年(1551年)9月1日●周防、長門、石見、安芸、豊前、筑前の守護・大内家31代当主 大内義隆は永正4年(1507年)11月15日、西国の周防・長門・石見・豊前4ヶ国の太守で大内家第30代当主・大内義興の嫡男として生まれました…

秀吉に気に入られ豊臣家のために戦った武将「宇喜多秀家」

●元亀3年(1572年)~明暦元年(1655年)11月20日●宇喜多氏最後の当主、備前岡山城主 宇喜多秀家は、元亀3年(1572年)備前の浦上氏の家臣・宇喜多直家の次男として岡山城で生まれました。 その頃の直家は、主である浦上氏と戦っており、その浦上氏が織田家…

一代で尼子氏を山陰地方の覇者になさしめた「尼子経久」

●長禄2年(1458年)11月20日~天文10年(1541年)11月13日●月山富田城主 尼子経久は、長禄2年(1458年)11月20日に京極氏の出雲守護代・尼子清定の嫡男として生まれ、文明6年(1474年)には京都に住んでいる主君であり、かつ出雲・飛騨・隠岐・近江守護でも…

我が国において一番最初に登場したキリシタン大名「大村純忠」

●天文2年(1533年)~天正15年(1587年)5月18日●肥後三城城主 大村純忠は天文2年(1533年)に有馬晴純の次男として生まれ、天文7年(1538年)には母方の大村純前の養嗣子となって、天文19年(1550年)に家督を継いでいます。 しかしながら、純前には実子・…

雅に憧れ、奢侈に溺れて国を傾けてしまった日向の王「伊東義祐」

●永正9年(1512年)~天正13年(1585年)8月5日●日向砂土原城主 伊東義祐は永正9年(1512年)に日向で生まれました。天文2年(1533年)に兄であり、かつ日向伊東氏9代当主の祐充が死去すると、叔父である伊東祐武が反乱を起こして、伊東家を取り仕切っていた…

黒田官兵衛の子、関ヶ原合戦では家康を勝利に導いた「黒田長政」

●永禄11年(1568年)12月3日~元和9年(1623年)8月4日●筑前黒田藩初代藩主 黒田長政は永禄11年(1568年)12月3日に播磨の武将・黒田官兵衛と櫛橋光の嫡男として姫路城で生まれました。 父・官兵衛は織田信長の家臣・羽柴秀吉に従い、天正5年(1577年)10月1…

黒田家24騎のひとりであり大坂の陣でも活躍した「後藤又兵衛」

●永禄3年(1560年)4月10日~慶長20年(1615年)5月6日●黒田家家臣⇒大坂城五人衆 後藤又兵衛は永禄3年(1560年)、播磨の別所氏家臣・後藤新左衛門の次男として生まれ、別所氏が天正8年(1580年)織田信長によって滅ぼされると、又兵衛は父と共に小寺氏を頼…

島津16代当主、戦国最強の弟達と家臣団を率いた「島津義久」

●天文2年(1533年)2月9日~慶長16年(1611年)1月21日●薩摩守護大名 天文2年(1533年)2月9日、薩摩の島津貴久の嫡男として生まれた島津義久は、幼いころは大人しい性格だったといわれています。 天文23年(1554年)に岩剣城攻めで初陣を果たした義久は、そ…

幕府に貿易の利益や自由を奪われたキリシタン大名「有馬晴信」

●永禄10年(1567年)~慶長17年(1612年)5月6日●肥前日野江藩主 有馬晴信は、永禄10年に肥前の大名・有馬義貞の次男として生まれ、元亀2年(1571年)に兄・義純が早世したため家督を継ぐことになりました。 晴信は家督を継いですぐの頃、キリシタンを迫害し…

関ヶ原の戦いで演じた天下を左右する裏切りを決行「小早川秀秋」

●天正10年(1582年)~慶長7年(1602年)10月18日●備前岡山藩主 小早川秀秋は、天正10年(1582年)豊臣秀吉の妻・おねの兄である木下家定の五男として近江の長浜に生まれました。 秀秋は小さいころに義理の叔父である秀吉の養子となり、幼少より高台院から非…

北肥前で勢力を持つ松浦党を指揮した平戸藩初代藩主「松浦鎮信」

●天文18年(1549年)~慶長19年(1614年)5月26日●肥前平戸藩初代藩主。 松浦鎮信は、天文18年(1549年)肥前の大名・松浦隆信と杉隆景の娘である母との間に長男として生まれました。 そんな鎮信は、子供の頃から塚原幹勝に剣術を学び、また和歌も嗜むといっ…

龍造寺隆信の義弟、後の肥前藩の基礎を作り上げた「鍋島直茂」

●天文7年(1538年)3月13日~元和4年(1618年)6月3日●肥前佐賀藩祖 鍋島直茂は、天文7年(1538年)肥前の龍造寺の武将である鍋島清房の次男として生まれ、天文10年(1541年)に、主君・龍造寺家兼の指示によって、千葉胤連の養子に出されました。 ただ、天…

秀吉からその忠義、またその剛勇は鎮西一 と称された「立花宗茂」

●永禄10年(1567年)8月18日~寛永19年(1643年)11月25日●筑後柳河藩の初代藩主 立花宗茂は、永禄10年(1567年)8月18日、大友氏の重臣で豊後の高橋紹運の長男として生まれ、初陣ながらも秋月氏との戦いで武功を挙げました。 宗茂のこのような活躍に惚れこん…

立花宗茂の義父で、生涯のほとんどを戦場で過ごした「立花道雪」

●永正10年(1513年)3月17日~天正13年(1585年)9月11日●筑前立花山城主 立花道雪は、永正10年(1513年)3月17日、豊後大野郡で、大友家の一族である鎧岳城主・戸次親家の次男として生まれ、長兄が早世したため後継者として育てられました。 母を幼くして失…

義将として知られ、生涯を通じ大友家に尽くした武将「高橋紹運」

●天文17年(1548年)~天正14年(1586年)7月27日●筑前岩屋及び宝満城主 高橋紹運は豊前筧城において、天文17年(1548年)大友義鑑の重臣・吉弘鑑理の次男として生まれ、義鑑の子・大友義鎮(宗麟)と父・鑑理の名前から1字ずつ貰って鎮理と名乗っていました…

対馬国主で江戸幕府下では朝鮮との条約締結に尽力した「宗義智」

●永禄11年(1568年)~慶長20年(1615年)1月3日●対馬府中藩主 永禄11年(1568年)、対馬の島主・宗家第15代当主宗将盛の五男として生まれた宗義智は長兄の茂尚、次兄の義純が相次いで早世したため、天正7年(1579年)に義調の養子に入る形で宗家の当主を継…

琉球の王族で、始祖は鎮西八郎為朝の子孫と伝えられる「尚寧王」

●永禄7年(1564年)~元和6年(1620年)10月14日●琉球首里城主 尚寧は、永禄7年(1564年)に琉球で王家の分家(第二尚氏)である小禄御殿3世・尚懿と、6代国王(本家)・尚永の妹である母との間に、長男として生まれました。 尚永王には男子がいなかったため…

堺の豪商の子から武将となり、朝鮮出兵で活躍した「小西行長」

●永禄元年(1558年)~慶長5年(1600年)10月1日●肥後の南半国宇土、益城、八代の三郡20万石 永禄元年(1558年)、和泉国堺の商人・小西隆佐の次男として生まれた小西行長は、小さい頃からキリスト教に触れ、のちに洗礼を受けてキリシタンになりました。 最…

キリシタンを保護し、また天正遣欧使節を派遣した「大友宗麟」

●享禄3年(1530年)1月3日~天正15年(1587年)5月6日●豊後国大友氏21代当主 大友宗麟は、享禄3年(1530年)1月3日、豊後の大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれました。 天文19年(1550年)2月、父である義鑑は宗麟を廃嫡し、異母弟の塩市丸に家督を譲ろ…

肥前を中心に一大勢力を 築き、肥前の熊と呼ばれた「龍造寺隆信」

●享禄2年(1529年)2月15日~天正12年(1584年)●肥前佐賀城主 龍造寺隆信は、享禄2年(1529年)2月15日、肥後の少弐氏の武将で会った水之江龍造寺周家の長男として生まれ、天文4年(1535年)には宝琳院の大叔父・豪覚和尚の下に預けられて、円月と名乗って…

朝鮮出兵と関ヶ原で島津の武名を天下にとどろかした「島津義弘」

●天文4年(1535年)7月23日~元和5年(1619年)7月21日●島津家17代当主 天文4年(1535年)7月23日、薩摩の島津貴久の4兄弟の次男として生まれた島津義弘は、天文23年(1554年)、父と共に大隅国の岩剣城にて初陣を飾り、弘治3年(1557年)には、大隅の蒲生氏…

秀吉の懐刀でありながら、最も恐れられた男「黒田官兵衛」

●天文15年(1546年)11月29日~慶長9年(1604年)3月20日●豊前中津城主 黒田官兵衛は、播磨の小寺政職に仕え、姫路城代を任されていた黒田職隆の嫡男として生まれました。 永禄4年(1561年)、小寺政職の近習に取り立てられ、翌永禄5年(1562年)には、父・…

賤ヶ岳の七本槍”のひとり、秀吉の子飼いである「加藤清正」

●永禄5年(1562年)6月24日~慶長16年(1611年)6月24日●肥後熊本城主 尾張国愛知郡中村(現在でいう名古屋市中村区)に住む刀鍛冶・加藤清忠の子供として生まれた加藤清正は、母親が羽柴秀吉の母である大政所の従姉妹であったことから、近江の長浜城主にな…

東軍・伊達政宗が上杉景勝の白石城を攻めた「白石城の攻防戦」

●宮城県白石市●1600年(慶長5年)●伊達政宗(4千)VS上杉景勝(1千) 《合戦までの経緯》1600年(慶長5年)徳川家康は上洛命令を拒否した上杉景勝に対し、豊臣政権に対する謀心があるとの理由から、諸将に対して会津征伐の軍令を下しました。 この会津への征…

南部本家に反旗を翻した津軽為信が津軽を統一「波岡城の攻防戦」

●青森県南津軽郡浪岡町●1590年(天正18年)●津軽為信(不明)VS北畠顕村(不明) 《合戦までの経緯》三戸の南部氏の一族で下久慈を所領としていた大浦氏は、南部本家の命令で1491年(延徳3年)に津軽種里の地に移り住み、津軽の地に地盤を固めていきました。…

ついに九州の島津義久が羽柴秀吉の軍門に下る「高城の戦い」

●宮崎県児湯郡木城町●1587年(天正15年)●羽柴秀吉(22万)VS島津義久(2万) 《合戦までの経緯》羽柴秀吉は本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げた後、5年間を掛けてほぼ全国の平定を終え、残る九州を平定すべく狙っていました。 その九州では、島津氏が大…

長宗我部元親が四国平定に向けて大きく前進「十河城の攻防戦」

●香川県高松市●1584年(天正12年)●長宗我部元親(不明)VS十河存保(不明) 《合戦までの経緯》中富川の戦いで長宗我部元親に敗戦を喫した三好勢は、十河存保によって讃岐にある十河城と虎丸城を拠点として抵抗を続けていました。 ただ三好氏は攻め寄せてく…

信長が逆臣・明智光秀により京都の本能寺に散る「本能寺の変」

●京都府京都市●1582年(天正10年)●織田信長(100)VS明智光秀(1万3千) 《合戦までの経緯》明智光秀は、信長の家臣の中でも軍の司令官としてだけではなく、知将としても知られており、信長からも大いに信頼を得ていました。 信長は甲斐の武田氏を滅ぼした…

長宗我部元親が三好領である隣国阿波へ侵攻「中富川の戦い」

●徳島県徳島市●1582年(天正10年)●長宗我部元親(2万3千)VS三好康長(7千) 《合戦までの経緯》生まれつき病弱だった長宗我部元親の末の弟である島弥九郎は、1571年(元亀2年)の春、有馬温泉にて療養をするために、土佐を発ちました。 有馬へは海路を取っ…

織田信長による中国地方攻略のための緒戦「上月城の攻防戦」

●兵庫県佐用郡上月町●1578年(天正6年)●織田信長(1万)VS毛利元就(3万) 《合戦までの経緯》織田信長は、中国地方の雄・毛利元就に攻められていた出雲の名門・尼子氏が因幡の国を取られそうになっているのを良い機会とし、尼子氏を救援するという名目で15…

織田信長が信貴山城の逆臣・松永久秀を攻めた「信貴山城の戦い」

●奈良県生駒郡平群町●1577年(天正5年)●織田信長(不明)VS松永久秀(不明) 《合戦までの経緯》北条早雲・斉藤道三とともに戦国時代における梟雄といわれた松永久秀は、主家である三好長慶に家宰を任されていましたが、長慶が1564年(永禄7年)に亡くなる…

六角義賢が浅井と結ぶ織田信長に戦いを挑んだ「野洲川の戦い」

●滋賀県守山市●1570年(元亀元年)●六角義軒(不明)VS織田信長(不明) 《合戦までの経緯》源氏の名門・佐々木氏の流れを汲む六角義賢・義治の親子は、居城である観音寺城を拠点として南近江を勢力圏としていましたが、信長が入洛するとの報に接すると、三…

土佐統一を目指す長宗我部元親が安芸氏と対決「安芸城の攻防戦」

●高知県安芸市●1569年(永禄12年)●長宗我部元親(5千)VS安芸国虎(7千) 《合戦までの経緯》長宗我部氏と長年にわたって領土をめぐる戦いを繰り広げていた安芸氏の祖は、672年の壬申の乱で敗れたのち、土佐へ流された左大臣・蘇我赤兄だといわれています。…

武田信玄が、駿河に侵攻し今川氏を攻めた「薩埵峠の戦い」

●静岡県清水市・庵原郡由比町●1568年(永禄11年)●武田信玄(不明)VS今川氏真(不明) 《合戦までの経緯》今川氏は、織田信長によって1560年(永禄3年)、当主であった今川義元が桶狭間にて討ち取られてしまったものの、義元の嫡男である氏真が後継となって…

大友宗麟が反逆者・高橋鑑種を討伐「岩屋城・宝満城の攻防戦」

●福岡県太宰府市●1567年(永禄10年)●大友宗麟(2万)VS高橋鑑種(不明) 《合戦までの経緯》大友宗麟は、筑前の高橋氏に後継ぎがなくお家の断絶危機に陥った際、この家が途絶えることを惜しんで、武勇に優れている武将で宗麟からの信頼も厚い一万田家出身の…

北条氏康と里見義弘が激戦を繰り広げた「国府台の戦い」

●千葉県市川市●1564年(永禄7年)●北条氏康(2万)VS里見義弘(8千) 《合戦までの経緯》房総において小弓城を拠点として勢力を伸ばしている原氏と対決するため、庁南城主・武田氏ならびに真里谷城主・真里谷氏は、反原連合をまとめるべく小弓公方の足利義明…

毛利元就が中国地方の覇権を握った「第二次月山富田城の攻防戦」

●島根県能義郡広瀬町●1563~66年(永禄6~9年)●毛利元就(3万5千)VS尼子義久(1万2千400) 《合戦までの経緯》中国地方の雄である尼子氏を倒すため着々と準備を進めていた毛利元就は、力攻めすることはせず、得意の調略によって尼子氏の勢力を弱める方針を…

大友宗麟が毛利氏の急襲侵攻を妨げた「門司城・立花城の攻防戦」

●福岡県北九州市●1561年(永禄4年)、1566年(永禄9年)●大友宗麟(1万5千)VS毛利元就(1万8千) 《合戦までの経緯》下剋上と呼ぶにふさわしいクーデターによって陶晴賢は大内義隆を屠り、1551年(天文20年)豊後の大友宗麟の弟である晴英(後の大内義長)…

朝倉義景が本願寺門徒を撃退し越前を守った「大聖寺の戦い」

●石川県加賀市●1555年(弘治元年)●朝倉義景(1万)VS加賀本願寺門徒(数万) 《合戦までの経緯》1488年(長享2年)6月に加賀の国の守護である富樫政親が本願寺門徒の一揆勢に攻め滅ぼされた後、加賀の国は本願寺門徒によって約100年の間支配され、世間では…

三好長慶が細川晴元を破り畿内の実権を掌握した「江口の戦い」

●大阪市●1549年(天文18年)●三好長慶(3千)VS細川晴元(3千) 《合戦までの経緯》三好長慶は細川晴元のために摂津や畿内を縦横に転戦していましたが、そのさなか、三好家における政長と長慶の家督争いが再び勃発しました。 もともと政長が晴元寄りだったた…

今川と織田が三河の支配をめぐって戦った「安祥城の攻防戦」

●愛知県安城市●1549年(天文18年)●今川義元(不明)VS織田信秀(不明) 《合戦までの経緯》戦国期では多くの守護大名が没落していきましたが、駿河の今川家においては見事に守護大名から戦国大名へ移行することに成功しました。 その今川家というのは、今川…

畿内で鉄砲を使わない最後の戦いとなった「舎利寺の戦い」

●大阪市●1547年(天文16年)●細川晴元(3万)VS足利義晴(2千) 《合戦までの経緯》管領の細川晴元を廃し、代わりに細川氏綱を据えようと、将軍・足利義晴や河内守護・畠山政国、さらに河内守護代・遊佐長教が反乱を企て、1542年(天文11年)末に氏綱が和泉…

尼子詮久が背信の毛利元就を攻めた「安芸郡山城の攻防戦」

●広島県高田郡吉田町●1540~41年(天文9~10年)●尼子詮久(3万)VS毛利元就(1万2千400) 《合戦までの経緯》16世紀の始め、中国地方には周防を本拠とした大内氏と、出雲を本拠とする尼子氏の二つの大きな勢力がせめぎ合っていました。 そんな中、新興勢力…