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【日本の歴史】もっと戦国時代を知ろう!おもしろすぎる戦いの数々

戦国時代においては、その時代名を読んで字のごとく毎日どこかしこで合戦が繰り広げられていました。それらの合戦がなぜ起こったのか、またその合戦を是か非でも勝ち抜くために武将たちはどのような準備を施し、またどのような戦略や戦術を駆使して戦ったのかをいくつかの合戦にスポットを当ててご紹介していきます。

秀吉にたよられるも毛利両川の立場を守った「小早川隆景」

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●天文2年(1533年)~慶長2年(1597年)6月12日
筑前37万石領主、豊臣政権5大老のひとり

小早川隆景は天文2年(1533年)、毛利元就の三男として生まれ、天文14年(1544年)に当主である小早川興景が死去した竹原小早川家に養子に入り、竹原小早川家の当主となりました。

そんな隆景の初陣は天文16年(1547年)で、大内義隆が備後・神辺城を攻めた際に従軍し、神辺城の支城・龍王山砦を小早川軍のみで攻略するという功を挙げて、義隆から賞賛されています。

天文19年(1550年)には、元就が謀略によって小早川氏の本家・沼田小早川家の当主が追放し、沼田小早川家を乗っ取る形で隆景に家督を継がせ、沼田・竹原の両小早川家は統合されました。

その後、小早川氏は毛利一門となり、毛利氏直属の水軍として活動することになり、弘治元年(1555年)には大内義隆を滅ぼした陶晴賢との厳島の戦いにおいて、その水軍を率い晴賢の水軍を撃破して、毛利軍の勝利に貢献しました。

隆景は、以降も北九州で大友宗麟と、山陰地方では尼子氏との戦いの中で元就を支え、元亀2年(1571年)に元就が死去すると、今度は毛利家を継いだ甥の輝元を兄・元春と共に補佐するようになりました。

天正2年(1574年)には織田信長が毛利氏の勢力範囲である中国地方に触手を伸ばしてくるようになり、さらに信長に追放された室町幕府最後の将軍・足利義昭天正4年(1576年)に備後・鞆へ下向してくると、毛利氏は信長と本格的に敵対するようになりました。

その織田氏の中国方面軍司令官羽柴秀吉で、山陰方面では元春が、山陽方面では隆景が秀吉と戦いを繰り広げましたが、秀吉による巧みな戦略・戦術によって次第に苦戦を強いられるようになり、天正10年(1582年)には清水宗治が籠る備中高松城が秀吉軍によって包囲されてしまいました。

隆景は毛利氏の主力3万を率いて救援に赴いたものの、なすすべなく戦闘は膠着状態に陥りましたが、そんな中本能寺において信長が家臣の明智光秀に弑されるという「本能寺の変」が起こりました。

この情報を先につかんだ秀吉が毛利氏に和睦を持ちかけ、そして早急に締結し上方へ戻っていきましたが、秀吉に騙された毛利方では、元春らが秀吉を追撃するよう主張したが、隆景はこの意見を退けました。

このことによって、隆景は秀吉からの信頼を得ることになり、隆景も毛利氏のために、秀吉の天下統一に対して積極的に協力し、天正13年(1585年)の四国攻めでの功により豊臣政権内で独立大名として伊予一国を与えらました。

しかし隆景は、秀吉から与えられた領地を一旦毛利氏に与えられたものとし、その領地を毛利氏から改めて受領する形をとるという、あくまでも毛利家の家臣であるという立場を崩しませんでした。

天正14年(1586年)から行われた、九州征伐にも従軍し、その際の功によって戦後筑前37万石を与えらましたが、その九州征伐において次兄・元春が死去してしまったため、その後の毛利家を隆景ひとりで支えていくことになりました。

そして、文禄元年(1592年)に朝鮮出兵が始まると、六番隊の主将として渡海し、文禄2年(1593年)の碧蹄館の戦いにおいては立花宗茂と共に明軍の本体を破る戦功をあげています。

秀吉から大いに信頼されていた隆景は、豊臣政権において五大老のひとりとなりましたが、跡を継がせるための男子がおらず、秀吉の義理の甥・羽柴秀俊を婿養子に貰い受け、小早川家を継がせて名島城を任せて、隆景自身は備後・三原城に隠居し、慶長2年(1597年)6月12日に65歳の生涯を終えました。

死ぬまで天下人・秀吉を嫌った毛利両川の猛将「吉川元春」

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●享禄3年(1530年)~天正14年(1586年)11月15日
●毛利の両川、日野山城主

吉川元春は享禄3年(1530年)、安芸の毛利元就の次男として生まれ、天文9年(1540年)には出雲の尼子晴久吉田郡山城へ侵攻してきた際には、父の反対を押し切って出陣し、元服前の身ながら見事に初陣を飾りました。

天文16年(1547年)に熊谷信直の娘・新庄局と結婚した元春は、同年7月に母方の従兄である吉川興経の養子となり、元就が天文19年(1550年)に興経を強制的に隠居させて元春に吉川家の家督を継がせると、元就は熊谷信直らに命じて興経とその子・千法師を殺害し、吉川家の乗っ取りを果たしました。

また居城をより要害の地である日野山に移した元春は、それ以後弟の小早川隆景と共に「毛利の両川」と呼ばれ、主に山陰地方の政治・軍事を担当し、毛利家を支えていくことになりました。

弘治元年(1555年)の厳島の戦いにおいても、元春は毛利軍の先鋒として陶晴賢率いる大内軍と戦いこれを撃滅しています。

その後の永禄8年(1565年)には山陰地方の雄である尼子氏の本拠・月山富田城に対して二度目の戦いを挑んだ際、元春は主力としてこの戦に参戦し、永禄9年(1566年)には尼子氏を降伏させることに成功しました。

この戦いで武功を挙げた元春は以降、山陰地方から四国や九州にまで活躍の場を広げていきましたが、そんな中尼子勝久を担いだ山中鹿介が率いる尼子氏再興軍が永禄12年(1569年)に出雲侵攻を目論みましたが元春はこれを撃退しています。

元亀2年(1571年)に父・元就が死去すると、元春は弟の隆景と共に毛利家当主である甥・輝元を補佐して毛利家の運営している中、尼子氏の残党が信長を頼って再び活動を開始し、また天正4年(1576年)には室町幕府の最後の将軍となる足利義昭が、信長に追放されて毛利氏を頼るに備後の鞆へ下向してくるなどにより、毛利氏と織田氏との対立が決定的となりました。

そして天正5年(1577年)からは信長の命により羽柴秀吉が軍勢を率いて播磨国に侵攻してきましたが、天正6年(1578年)には尼子勝久や山中鹿介ら尼子氏の残党が信長の支援のもとで籠城している上月城を攻めて尼子氏再興軍を完全に滅ぼしました。

しかし毛利軍の優位もここまでで、天正8年(1580年)には織田を寝返って毛利氏についた別所氏の三木城が落城し、また備前宇喜多直家伯耆・南条元続の織田氏への寝返り、さらに天正9年(1581年)には元春の重臣・吉川経家が籠もる因幡鳥取城が落城するなど、毛利氏は徐々に劣勢に追い込まれていきました。

さらにその後、天正10年(1582年)には清水宗治が籠る高松城が秀吉によって攻められたため、元春は輝元や隆景と共に救援に向かったものの、秀吉の水攻めのため戦線は膠着状態になりました。

そんな中、信長が明智光秀の謀反により本能寺で横死すると、秀吉はその情報を毛利氏へは隠しつつ、毛利氏と講和を結び、高松城清水宗治には腹を切らせて、京へと戻っていきました。

講和後、秀吉に騙されたことを知った元春は、秀吉の追撃を主張しましたが、隆景からの反対もあり思いとどまらざるを得ませんでした。

そして秀吉が天下人になってからも、秀吉に従うのを嫌い、当主の座を長男の元長に譲って隠居しました。

しかし天正14年(1586年)、秀吉からの強い要望を受けた隆景や輝元からの説得によって隠居の身でありながら元春は九州平定に従軍しましたが、その頃すでに身体を病に蝕まれていたため出征先の豊前小倉城で57歳の生涯を終えています。

毛利氏に忠誠をつらぬき高松城に散った備中侍「清水宗治」

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●天文6年(1537年)~天正10年(1582年6月23日)6月4日
●備中高松城

清水宗治は天文6年(1537年)、備中の大名三村氏の家臣である清水宗則の次男として生まれました。

宗治の主君である三村氏は、中国地方に大きな勢力を保有する毛利氏と同盟を結んで、父の仇である宇喜多直家と戦っていましたが、かなりの苦戦を強いられていました。

その状況を見ていた毛利氏は三村氏を見限り、宇喜多氏と同盟を結ぶことになり、最終的に三村氏は毛利氏によって滅ぼされてしまいました。

主家の三村氏が毛利氏と備中一円を舞台として戦いを繰り広げた、天正の備中兵乱の中、宗治は自家の生き残りのために毛利氏に寝返ることに決めました。

三村氏の重臣・石川久高の娘を妻にしていながらも毛利氏へ寝返った宗治でしたが、三村家の中で寝返ったのは宗治だけでなく、三村親成などの三村氏一門の人間でさえ毛利氏に寝返るような状況でした。

また三村氏が滅んだ際、高松城主であった義父・石川久高も死去しため、宗治が娘婿であるということを理由として高松城主の地位を手に入れたといわれています。

毛利氏の家臣となった宗治は、小早川隆景の配下となり、毛利氏の備中攻略に従って、活躍をし、また宗治自身の忠義真の厚さも手伝って、隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深い信頼を得ていきました。

その後天正6年(1578年)織田信長の命により、家臣の羽柴秀吉が中国攻めのため、軍勢を播磨へ進めてくると、宗治は毛利氏による播磨・上月城攻めに従軍し、秀吉の軍と干戈を交えました。

そして秀吉の軍勢が着々と毛利氏の領土を侵食していく中、宗治は秀吉から領土の加増を見返りとして毛利氏からの寝返りの誘いがありましたが、宗治は頑としてその誘いを断り毛利家に忠義を誓いました。

しかし天正10年(1582年)には、ついに宗治の居城・高松城が秀吉の大軍によって包囲され、さらに黒田官兵衛の献策による水攻めによって高松城は窮地に立たされてしまいました。

毛利家当主・毛利輝元や隆景らによる援軍が到着するも、秀吉の軍勢によって十重二十重に包囲された高松城には近づくことは出来ず、また秀吉との和平交渉も上手くまとまりませんでした。

というのも宗治は毛利家から忠義の家臣として厚い信頼を受けており、もし信長が高松城へ秀吉の援軍として現れた場合、毛利家はこの戦いに負けて滅びる可能性があるものの、毛利家首脳部としては、毛利家の広大な領土を大幅に割譲したとしても忠義の士である宗治を見捨てることは出来ないとして宗治の切腹という条件に対して断固拒否していたからでした。

そんな高松城を巡る攻防の最中の6月2日、京において信長が家臣である明智光秀によって攻め殺されるという本能寺の変が起こりました。

その報をいち早く受け取った秀吉は、急ぎ上方へ戻って、主を討った光秀に対して弔い合戦を挑むため、毛利氏と急いで和睦を結ぶ必要に迫られました。

和睦を急ぐ秀吉は、毛利氏の外交僧である安国寺恵瓊に対して、改めて宗治の切腹を条件に城兵を助命するとした講和を呼びかけました。

恵瓊はこの条件を直接宗治に伝え、自身の命ひとつで城兵が救えるならばと、信長の死を知らぬまま、その2日後に兄・月清入道及び弟・難波伝兵衛、さらには援将であった末近信賀らとともに湖に浮かぶ小舟において切腹し46歳の生涯を終えました。

尚、秀吉は宗治が切腹の前にひとさし舞ったのち、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた作法に感動し、後に隆景に会った際に「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したといわれています。